【提起】「人の目」が気になる人に送る、聖書の言葉

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

ついつい他人にどう見られているか気になるのが人間ですが、聖書は何と言っているのでしょうか?

 

▼「人の目」が気になる? ▼イエスは何と言ったのか ▼イエスは何と言ったのか、その2 ▼パウロは何と言ったのか ▼神はエリヤに何と言ったのか ▼まとめ:人の目より、心に注目しよう

 

▼「人の目」が気になる?

 人間は、弱い生き物だ。基本的に、自信がない。外側は自信に満ちあふれているような人も、実は自信のなさの裏返しだったりもする。認めてほしい。愛してほしい。褒めてほしい・・・。どうしようもない自己承認欲求が、人間にはある。それが人間のサガというものだ。

 だからこそ、人は常に「他の人にどう見られているか」を気にする。自分が他人にどう評価されているか。他人にとって自分は有益な存在になっているか。自分は嫌われてはいないか。人によって差こそあれ、どんな人もこのような不安と、日々戦っているのではないだろうか。

 私は、正直いってあまり人の目を気にする性格ではない。しかし、やっぱりブログに付くコメントは気になるし、悪口を言われたらヘコむ。だから、私も「人の目」を気にはしているのだろう。

 人によっては、「他者の目」を気にするあまり、何が自分の本当の心なのか、分からなくなってしまっているケースもあると聞く。他の人の意見に合わせるあまり、自分がなくなってしまうのである。「空気を読んでばかりいたら、自分が空気のようになってしまった」なんて、よく聞く話だ。特に日本人は島国独特の「むら社会」の文化の影響もあり、世界的に見ても「人の目」を気にする傾向は強いのではないか。

 「人の目」からは、ある意味では一生逃れられない。しかし、自分の気持ちの持ちようは変えられる。聖書は、「他の人にどう見られるか」という問題について、どう書いているのだろうか。今回は、「人の目」が気になる人に対して、聖書の言葉を送る。

 

 

▼イエスは何と言ったのか

 イエスは、他者からどう見られるかという問題について、どのような発言をしているのだろうか。こんな言葉がある。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

(マタイの福音書 5章11~12節)

人々があなたがたを憎むとき、人の子(イエス)のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

(ルカの福音書 6章22~23節)

 

 クリスチャンの中では、他の人の目を気にするあまり、「自分がクリスチャンである」と大胆に言えない人も少なくない。クリスチャンであると公言することによって、自分にマイナスの影響があるのではないかと恐れているのである。しかし、イエスは上のように「わたしのゆえに排除され、ののしられ、けなされるとき、あなたがたは幸いだ」と教えているのである。「わたしのために・人の子(イエス)のゆえに」迫害されるのであれば、飛び上がって喜べとまで教えているのだ。

 このことから、「人の目」を気にしすぎる姿勢は、イエスの教えとは合致しないと分かる。クリスチャンである以上、もはや人に何を言われようが気にしなくて良いのである。ただイエスが神であり主<しゅ>であると告白すれば良い。聖書にこう書いてある。

あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。

(ルカの福音書 12章8節)

 

 

▼イエスは何と言ったのか、その2

 イエスの言葉を別のアングルから検証してみよう。当時のユダヤ教には「律法学者」や「パリサイ派」と呼ばれる指導者たちがいた。彼らは、尊敬される宗教指導者だった。しかし、イエスは彼らはこのように痛烈に批判した。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

(中略)

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

(中略)

あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

(中略)

(マタイの福音書 6章1~16節)

 

 パリサイ派に対して、イエスは強い批判を繰り返している。その根源は、彼らが「人に見せるために」善行を見せびらかしていた点にある。彼らは、聖書に書いていないような部分まで強調し、「いかに自分が信仰深いか」を見せびらかして、尊敬を集めていたのだ。そうやって自尊心を満たしていたのだ。

 しかし、イエスは「戸を閉めて、隠れたところにいる父に祈れ。そうすれば、隠れたところで見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と言った。「人の目」を気にするのではなく、「隠れたところに存在する神」に対して行動せよ。それがイエスの言葉である。

 現代の教会においても、同じように「パリサイ派」のような状態に陥っている人はいないだろうか。「毎週来て偉いね」と言われるために日曜日に教会に行ってはいないだろうか。「自分の信仰深さ」を見せびらかすために、教会で「奉仕」をしていないだろうか。また、「あの人より、自分は教会に来ている」「あの人より奉仕をしている」「あの人よりマシだ」と思ってはいないだろうか。人間は弱い。すぐ人と自分を比較する。しかし、聖書にはこう書いてある。

主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る

(サムエル記第一 16章7節)

 

 

▼パウロは何と言ったのか

 では、イエス以外の人物たちはどのように言っているのだろうか。使徒パウロの場合を見てみよう。彼が書いた教会への手紙の中には、こんな告白がある。

人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

(コリント人への手紙第一 4章1~5節)

 

 使徒パウロにとって、イエスに従い、イエスを伝えることの他に、大切なものはなかった。「他人の評価は、私にとって非常に小さなことだ」これは、パウロの「俺はお前らに何言われても気にしないぞ!」という大胆な告白である。パウロは、若い頃はイエスの信者を迫害していた。彼は、信者を見つけては牢に引きずっていくほど、激しく迫害した。

 しかし、イエスと劇的な出会いを果たしたパウロは、とたんにイエスを述べ伝え始める。その上、彼は「もうモーセの律法は必要ない」と言わんばかりの「信仰義認」の考え方を、至るところで述べ伝えていた。外国人からは恐れられ、ユダヤ人からも批判された。パウロほど命を狙われ、批判され、さげすまれていた使徒はいなかっただろう。彼のこんな告白がある。

彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

(コリント人への手紙第二 11章23~27節)

 

 それほどの極限の状態にあっても、パウロは「俺は、人にどう思われようとも、全く気にしない!」と断言したのであった。なんと強い姿勢だろうか。私も、パウロのようなブレない心を持ちたい。そう思う。「イエス以外のことなんで、ゴミクズだ!」そうパウロは言い放っている。

 

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。

(ピリピ人への手紙 3章8節)

 

 

▼神はエリヤに何と言ったのか

 旧約聖書ではどうか。預言者エリヤのケースを見てみよう。預言者エリヤは、主に北イスラエルで活躍した預言者である。彼は、イスラエルの神、【主】(しゅ)に従わず、バアルという異邦の神に仕えた王たちと戦った。彼は立派にその勤めを果たし、勝利したのだが、いわゆる「燃え尽き症候群」のようになってしまう。「私のいのちを取って下さい」と言っていることから、現代でいえば「うつ病」のような状態だったのかもしれないという人もいる。

 さて、そのエリヤが「燃え尽きた」シーンを見てみよう。

自分(エリや)は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

(中略)

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

(中略)

エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。

主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。(中略)しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。

(列王記第一 19章4~18節)

 

 いかがだろうか。エリヤは絶望の状態にあった。「死にたい」と願うが死ねず、どこを探しても神を見つけられなかった。まさに、希望がないとはこのことである。しかし、神はエリヤにこのように宣言する。「わたしは、7000人を残してある」

 これは、「私の味方は誰もいない」と嘆いたエリヤへの答えである。「7000」という数字は、ヘブライ語において完全数「7」の千倍。圧倒的な量を表す数だ。「まだ見えない仲間を、たくさん残しているよ」。これが神の答えであった。

 「人の目」を気にしている人にありがちなのは、「私だけだったらどうしよう」という不安である。「こんなことしているのは私だけ」「他の人はみんな違う」「私だけ異質だ」。「一人ぼっちだ」。それが人間の根本的な恐怖である。

 しかし、神の言葉は違う。「私はあなたのために仲間を残している」それが神の約束である。私は、これは個人的にいわゆる「サイレント・マジョリティ」をも示唆した言葉でもあるのではないかなと受け取っている。

 新約聖書は、このエリヤのエピソードを、このように解説している。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。

(ローマ人への手紙 11章2~5節)

 

 イスラエルの民は見捨てられていない。神は必ずイスラエルに対する恵みを残されている。エリヤの話はその「型」である・・・これがローマ人への手紙の解説である。エリヤが「私だけが残った」と言ったが、神はその先々の時代までも含めて、「いや、まだ7000人を残している」と言ったのかもしれない。

 自分が一人ぼっちに思える時がある。しかし、神はその孤独感を知っておられる。そして、必ずその心に応じて報いてくださる。神は、そういうお方だ。

 

 

▼まとめ:人の目より、心に注目しよう

 いかがだろうか。聖書は、現代の私たちにとっても励ましの言葉に溢れている。以下、今回紹介した事例をまとめてみよう。

<イエスの言葉>

他人が、イエスを信じる信仰をバカにしてきた時こそ喜ぶべきだ。

・パリサイ派は人の目ばかり気にしているが、人からどう見られるかではなく、隠れたところにおられる神こそに気を配るべきだ。

<パウロの言葉>

人にどんなに批判されようが、知ったこっちゃない。

・それどころか、自分で自分を評価することさえくだらない。

イエスを信じる信仰に比べたら、他のどんなものもゴミクズ同然だ

<神のエリヤに対する言葉>

あなたは一人じゃない

・わたしは、「わたしのために」、他の仲間を残している

 

 あなたは一人じゃない。他の人にどう思われるか、気にしすぎるのは良くない。それは、裏を返せば、究極の自己中心だ。そうではなく、隠れたところに存在する神に気を配ってみてはどうか。神が見ている、「他者の心」に寄り添ってみてはどうだろうか。自分の「関心のベクトル」の方向が、自分から他者へと向きが変わる時、不思議とあなたの恐れや不安は、なくなっているかもしれない。

 

(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

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