【提起】「スモールグループ」が大切だと分かる5つのポイント

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

クリスチャン界では「スモールグループ」なるものが存在します。一体どんな意味があるのでしょうか?

 

▼「スモールグループ」とは? ▼1:「スモールグループ」は人間関係をつくる ▼2:「スモールグループ」は聖書を中心に互いに教え合う場となる ▼3:「スモールグループ」は自分をオープンにできる場となる ▼4:「スモールグループ」はお互いのために祈る機会となる ▼5:「スモールグループ」は互いの間違いを指摘できる関係となる

 

▼「スモールグループ」とは?

 教会に行くと「スモールグループ」なるものを紹介される場合がある。文字通り「小さな集まり」を意味し、教会に通っているメンバーのうち、数人~10人ほどのグループで集まる関係を指す。スモールグループでは、一緒に聖書を呼んだり、祈り合ったり、近況を話し合ったりする。スモールグループは、神と共に歩む人生において非常に大切なものである。私自身、東京都内で毎週1回集まるスモールグループを開催している。様々な年齢、教会、バックグラウンドの人々が平日の夜に集まり、共に聖書を読み、互いに祈り、近況を分かち合う・・・そんな時間を持っている。私の地元の教会では、スモールグループからさらに踏み込んで「1対1」の関係を意図的に作っている。

 私は「スモールグループ」は「教会」の目的そのものであると思っている。教会の目的を果たすためにスモールグループがあると言っても過言ではない。教会の規模にもよるが、特に大きい教会ではスモールグループは必須である。人数が100人を超えるような大きい教会(※メンバーが100人以上いる教会は日本では大きい部類に入る)でスモールグループがなかったとしたら、もはや教会の体をなしていないとさえ思う。それほどスモールグループは大切なものだと認識している。

 なぜ、スモールグループはそれほど大切なのか。今回は、5つのポイントに絞り、スモールグループの重要性を説明したいと思う。また、近日中にスモールグループの簡単な運営方法についてもまとめて記事を書きたいと思う。スモールグループの定義は様々あるが、今回は簡単に以下のようにしたい。

<スモールグループの定義>

唯一の聖書の神とイエスを信じる者たちが集まるグループ

人数は2人~15人ほどを想定する(それより大きいグループになると運営が難しいし、目的が果たせない)

・まだ神を信じていない人たちの参加も想定する。

マジョリティはイエスを信じる者たちを想定する。

・1人以上の運営者がいる

・同じ教会のメンバーからなるスモールグループと、様々な教会のメンバーからなるスモールグループの両方が存在しうる

・同性のみのスモールグループと、そうでないスモールグループの両方が存在しうる

定期的に集まるグループである

一定の人間関係と信頼関係が築ける場である

・イエスの名によって集まり、イエスを中心とした人間関係が構築される場である

・活動内容は、聖書を読む、聖書を学ぶ、祈る、メンバー同士で様々なトピックについて話す、一緒に食事をするなど、様々なことが想定される

・基本的にプライバシーが守られる場である

・具体的な目的によって細かな定義、ルール、運営方法は異なる

 

 

▼1:「スモールグループ」は人間関係をつくる

 ひとつ目のポイントは、「スモールグループは人間関係をつくる」というものである。実は、これが一番重要な点であり、スモールグループの目的そのものである。まさに、「教会」の目的を果たすために「スモールグループ」があると言っても過言ではない。聖書は、教会についてこう書いている。(※先週の記事で掲載したものと同じ。くどいようだが、大切なので再掲する)

約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23~25)

 

 信者が集まる理由は「互いに励まし合うため」である。では、何を励ますのか。それは、前後の記述から明らかなように「イエスに対する信仰を励ます」のである。クリスチャンが告白する希望は、以下の聖書の言葉に現れている。

私(パウロ)があなたがた(コリントの信者たち)に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。

(コリント人への手紙第一 15:3~5)

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

(ヨハネの福音書 14:1~3)

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 4:16~18)

 

 これらがクリスチャンの抱く希望である。この希望を告白し、クリスチャンはこの世で生きるのである。この希望を告白するために、クリスチャンは集まるのである。その「集まり」が「教会」である。「教会」などという言葉はもとから無く、本来は「集まり」という意味である。くどいようだが、イエス自身もこう言っている。

まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:19~20)

 

 つまり、イエスは「イエスを神と告白する者の集い」そのものが「教会」だと言っているのである。詳細は、先週の記事を参照していただきたい。教会は本来、「イエスを神と告白する者同士の人間関係が生まれるところ」であるはずなのだ。日曜日の「礼拝会」に出席し、誰とも話さず、「あ~~牧師先生様のお説教ためになったな~」で帰るだけだったら何の意味もない。牧師の説教が目的だったら、youtubeでも見ていればいい。教会として集う目的は、そこに生まれる人間関係である。スモールグループは、この「人間関係」をより深く築くための方法である。

 人は人間関係を通して成長する。人間関係を通して、人の心は研がれる。聖書にこう書いてある。

鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。

(箴言 27:17)

 

 大きな教会では、得てして集会に「参加するだけ」になりがちだ。スモールグループのようなものがないと、教会に集った人々との間の人間関係は、どうしても希薄になる。同じ教会で、「顔は知っているけど名前は知らない」「よく話すけど、どんな人かよく分からない」なんていう人はいないだろうか。もし教会の人間関係が希薄だと感じたら、スモールグループを始めてみるといいかもしれない。「人間」という単語は、「人のあいだ」と書く。神は、人間を「人間関係の中に生きる存在」に造ったのだ。

 

 

▼2:「スモールグループ」は聖書を中心に互いに教え合う場となる

 聖書は、教会の目的のひとつとして、こんなことを書いている。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

私(パウロ)の兄弟たち(信仰の仲間)よ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

(ローマ人への手紙15:14)

 

 「互いに教え、訓戒し合う」。これは教会の大切な目的のひとつである。スモールグループは、互いに教え合う絶好の場となる。誰かが誰かを教えるという上下関係ではなく、互いに知恵を出し合い、互いに教え合い、支え合う。それがスモールグループの理想的な形である。

 何をもって教え合うのか。様々な方法があるが、一番シンプルかつ重要なのはやはり単純に一緒に聖書を読むというものだ。使徒パウロは、自分の弟子であるテモテに手紙を書いた。テモテは若き教会のリーダーだった。パウロは、そんなテモテに対してこんなアドバイスをしている。

あなた(テモテ)は年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12~13)

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

(テモテへの手紙第二 3:16)

 

 この場合の「聖書」は一義的には「旧約聖書」を指す。しかし、現代の私たちにとっては旧約聖書、新約聖書の両方が「聖書」として残されているので、両方読んで、そこから学べる。聖書はあなたを教える、とても有益な書物だ。

 しかし、中には一人だけで読んでもピンと来ない部分もある。何人かで一緒に聖書を読めば、一人ひとりの感性、知恵、ひらめきを共有できる。一人では気が付けない、新しい発見や発想、読み方、捉え方をシェアすれば、聖書理解は何倍にも膨らむ。使徒パウロの時代は、信者たちは家に集まり、遅くまで聖書を読み、聖書について、神について語り合っていた。聖書に登場するベレヤの町の人々は、パウロの教えが果たして本当かどうか、毎日聖書を調べた。

 同じように、スモールグループの中心となるのは、やはり聖書だと私は考える。一緒に集まり、一緒に聖書を読み、一緒に聖書について語り合う。これだけで既に立派なスモールグループになりえると、私は考える。聖書の読み方、語り合い方は様々あって、「こうしなければならない」というものはないので、目的にあったやり方を選べばよいだろう。

 クリスチャンではない人がスモールグループの中にいたら、その人にとっては聖書を学ぶ絶好の機会になる。教会では、なかなかかしこまって聞けない根本的な質問も、スモールグループでなら聞きやすい。「神はいるのか」「世界を造ったとどうして言えるのか」「イエスは何をしたのか」・・・そんな単純な質問も、スモールグループの中でなら話しやすい。クリスチャンになったばかりの人も、スモールグループは聖書や神について学ぶ、最高の機会である。

 

 

▼3:「スモールグループ」は自分をオープンにできる場となる


 スモールグループは、ときに個人的かつデリケートな会話ができる場となる。大勢の前では話しにくい話題、話せない話題を、スモールグループではオープンに話すことができる。例えば、何か失敗してしまったり、問題を抱えている場合、人は誰かにそれを話す必要がある。スモールグループは、それを話し合い、支え合う絶好の機会となる。聖書にはこう書いてある。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

(ヨハネの手紙第一 1:9)

 

 この聖書の言葉は、必ずしも「全ての罪を人に言わなければいけない」という意味ではない。一義的には、罪は神の前に告白するものであり、人に言う義務はない。しかし、人間はときに誰かに自分の弱さ、至らなさを分かち合う必要がある。共に苦しみや痛みを分かち合い、共有することで、心が癒やされ、解放される。グループとしての人間関係の結びつきも強くなる。また、失敗だけでなく、今抱えている悩みを打ち明ければ、心が楽になり、解決のために知恵を出し合える。

 聖書は、共同体の役割について、以下のように書いている。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

(エペソ人への手紙 4:25)

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

(エペソ人への手紙 4:32)

 

 スモールグループでは、ともに思いを分かち合い、同じからだとして痛みを共有し、喜びを共有することができる。また、互いに赦し、赦される経験ができる場でもある。グループ内で信頼関係が築ければ、より自分をオープンにすることができる。そのため、スモールグループ内のプライバシー保護は非常に大切な要素だ。それらが担保されれば、スモールグループは、もしかすると教会、家庭、職場では見せられない自分の姿をさらけ出せる場になるかもしれない。癒やしと解放、赦しと励ましがある場。それがスモールグループである。

 

 

▼4:「スモールグループ」はお互いのために祈る機会となる

 スモールグループでは、より個人的にお互いのために祈ることができる。祈り合うことの大切さを、聖書はこのように書いている。

あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

(ヤコブの手紙 5:13~16)

 まことに、もう一度あなたがた(イエスの弟子たち)に言います。あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたし(イエス)の父(神)はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:19~20)

 

 聖書は、イエスを信じる者たちが集まり、互いのために祈るよう勧めている。そして、祈りは様々な形で答えられる。時に病気の癒やしという形で、時に問題の解決という形で、時に人が想像しない形で神は祈りに答える。ともに心をひとつにし、互いのために祈る。これはイエスを信じる者たちの特権である。

 スモールグループで集まる大きな理由のひとつに、祈りがある。教会の会堂で「お祈り」はできるが、それは「互いのために祈る」という個人的なものではない。やはり、少人数で集まり、互いの個人的な祈り課題(祈ってほしいこと)を集中的に祈るというのは、クリスチャン生活にとって欠かせないものである。また、イエスを信じていない人であっても、より個人的な話ができたりするキッカケになる。スモールグループ内にもしクリスチャンではない人がいたら、他のメンバーはその人のために祈ることもできる。

 

 

▼5:「スモールグループ」は互いの間違いを指摘できる関係となる

 最後のポイントは、少しチャレンジングだ。それは、互いに間違いを指摘できるというものである。日本人は、他人に注意するのがとても苦手だが、実は聖書は互いに注意し合うように教えている。

約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23~24) 

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:10~11)

 

 もし、スモールグループの中で、明らかにおかしな方向に進んでいる人がいたら、愛をもって指摘するのはとても大切な行為だ。教会という大きな塊では、それはときに噂話、ゴシップとなって現れる。「あの人、実は●●したんだって」「あの牧師、昔こんなことしてたらしいよ」なんていうのは、悲しいが、よく教会で聞こえてくる会話だ。それは噂話、ゴシップであり、人を建て上げるものではない。

 しかし、スモールグループでなら話は別だ。個人的な関係の中で、面と向かって「あなたの言動は、間違っているのではないか」「ちょっと冷静になった方がいいよ」「今おかしな方向に進んでいない?」などと、愛をもって指摘することができる。互いに注意しあい、互いに教え合い、互いに高め合える。それはクリスチャンにとってとても大切だ。そのような個人的信頼関係をゼロから作るのは、とても難しい。しかし、スモールグループという「場」があれば、自然とそのような指摘ができる関係性が生まれる。スモールグループを触媒として、お互いに行動、生活、信仰基準をチェックし合える関係を醸成できるのだ。

 

 いかがだろうか。他にもスモールグループの利点は、たくさんある。百聞は一見にしかず。一度、教会のスモールグループに参加してみよう。教会になければ、教会を超えたスモールグループがないか探してみよう。もしくは、スモールグループを自分で始めてみよう。きっと、素晴らしい結果が待っているに違いない。

二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

(伝道者の書 4:9〜12)

 

(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

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