「人の思いを見通す神」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

ティアティラはペルガモンから南東へ約60km、街道沿いにある内陸地の町である。織物・染色で知られた商業の町で、使徒言行録16,14に、この町出身の「紫布商人」リディアという女性が登場するのも、そのことと関係があるだろう。政治的にはそれほど重要ではなく、従って皇帝礼拝の施設もなかったという。

さて、この町の教会に対して天上のキリストは、「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている」(19)と賞賛している。エフェソの教会が「初めのころの愛から離れてしまった」(2,4)と叱責されたことを思えば、ティアティラ教会が着実に成長を続けていたことが窺われる。

しかし、問題もあった。地上の教会で完璧なものは一つもない。いずれも問題を抱えている。ティアティラの場合は、「あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている」(20)と批判される。一体、イゼベルとは何者か?

20節の終わりに、「この女は自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」とある。「みだらなこと」(淫行)とは、性的な悪行というより信仰的な堕落のことであろう。「偶像に献げた肉を食べる」というのは異教礼拝への参加だ。ペルガモンでも「バラムの教えを奉ずる者」や「ニコライ派の教えを奉ずる者」が同じように「偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせた」(2,14)と言われている。ここから見て、神に対する信仰を夫婦間の節操に譬えて、こうした信仰的な危険がティアティラにもあるということを象徴的に表現したのであろう。カリスマ性を具えた女性の自称預言者が実際にこの町にいて影響力を行使していたとも考られるが、やはり象徴的な表現である。

ところで、イゼベルというのは紀元前850年頃実在した女性である。列王記上16,31-33によると、彼女はシドン人の王でバアルの祭司・エトバアルの娘であり、北王国イスラエルの王アハブの妻に迎えられた。この妻に影響されて、アハブ王は大々的に「バアル礼拝」を取り入れ、イスラエルの信仰を大いに歪めた。列王記に「彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」(王上16,30)と記録された程だ。しかし、この悪行を先頭に立って指揮したのはイゼベルである。彼女は、450名のバアルの預言者・400名のアシェラの預言者を手先に使ってヤハウエの預言者たちを片端から捕らえて皆殺しにし、たった一人残ったエリヤをも荒れ野に追いつめて殺そうとした。メンデルスゾーンのオラトリオ『エリヤ』に歌われている通りである。

だが、今日の箇所でイゼベルという名が使われているのは、前述の通り、信者を誘惑して「信仰的淫行」に導こうとする危険な人々(ないしは運動)の象徴としてだ。

参考のためにイゼベルが持ち込んだ「バアル宗教」について述べておく。これは元々、「大地の生産力」への信仰で、パレスチナ地方に広く分布していたものだ。

土地を耕して作物を育てる農民たちは、ある程度自分の力で働くが、その後は、人間の手には及ばない自然の恵みに委ねるほかはない。今年のように早すぎる春も、遅くなってからの寒さも、収穫を大いに左右する。「寒さの夏はおろおろ歩き…」(宮沢賢治)。羊や牛を飼う人々も、BSEのような病気が流行らないように、小羊や小牛が今年もなるべく多く生まれるようにと祈るような気持ちで生きている。

その中で、土地に住む超自然的な神の存在を信じて恵みを祈るようになるのはごく自然の成り行きである。その意味で、バアル宗教のような「産土の神」は、洋の東西を問わず、普遍的な現象と言ってもいい。

それがなぜ、イスラエルでは危険とされたのか?

謙虚な気持ちで自然の恵みを祈っている間はいいが、この謙虚な祈りは実に微妙なところで、「自分の欲望を叶えて下さい」という祈りに変質する。事実、バアル宗教は、「自己中心主義」(エゴイズム)への道を開いた。欲望は解放され、人々は「バアル」という神を信じて拝むだけでは納まらず、結局、「自分の欲望」を神とするようになった。欲張りになり、性的にも締りがなくなった。

これは、旧約聖書の戒め、主イエスが「神への愛」と「隣人への愛」という、二つの「愛の戒め」に集約した神の意志に逆らうものだ。イゼベルという名で象徴的に示されているのは、このことである。それは、「愛、奉仕、信仰、忍耐」(19)の対極にある。

だからこそ、このような生き方に対しては神の裁きが下るのである。「この女を床に(=死の床に)伏させよう」(22)とか、「ひどい苦しみに遭わせよう」(22)、あるいは「この女の子供たちも打ち殺そう」(23)という一見残酷な言い方も、イゼベルに象徴されるような神への背反は、結局、続かないという意味なのである。イゼベルは、神の前では、いかなる将来も持たない。今、日本が「バブルのツケ」を払わされるような形で天文学的な額の「不良債権」の処理に苦しんでいるのも、このことの具体的な現われだと言っていいだろう。

イゼベルに象徴されるような神への背反、自己中心的な「欲張り」は、必ず神の裁きを受ける。それを通じて我々は、神が「人の思いや判断を見通す」(23)方であること、人間の心の奥まで見通して何時かは正しい裁きを下されるということを悟るようになる。これに反して、「わたしの業を終わりまで守り続ける者」(25)には「明けの明星」 (28)が与えられる。「明けの明星」は22,16ではキリストご自身であるから、これは復活の主と共に永遠の生命に与るという約束なのである。


 
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