「目を覚ませ」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

サルディスという町は、前回のティアティラからさらに南南東へ約55kmの平地にある。昔は栄えたが、ヨハネの頃は、羊毛の集散地として知られた位である。

しかし、この町にも教会があって、そろそろローマ帝国全域に広がる気配を見せていたキリスト教迫害に対して自らの姿勢を確立する必要に迫られていた。ヨハネはこのことを念頭に置きながらこの手紙を書いたのである。「神の七つの霊と七つの星とを持っている方」(1節)、これは1章によればキリストを意味しているが、彼の名において書いたという点は、他の教会に対する場合と同じである。

さて、この手紙には賞賛の言葉はない。いきなり「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(小河訳:「お前は生きているとの評判を得てはいるが、[実際には]死んでいる」という厳しい言葉で始まる(1節後半)。

「生きている」とか「死んでいる」というのは、単に肉体的な生死を意味するものではない。これは前後の文脈から既に明らかだ。むしろ、5節に出て来る「命の書」にその名が記されるような生き方をしているかどうかが問われているのである。恐らくサルディス教会については、信仰的に「勝利を得る」(5)と約束された教会という評判が一般にあったのであろう。だが、キリストの目から見れば、それは評判倒れで、実際は「死んでいる」、つまり、「命の書」に名を記され、信仰的な勝利を約束されるような生き方はしていない、というのである。

ある学者は具体的にこう説明する。すなわち、サルディス教会は、一見うまく行っているように見えるかもしれないが、実際は「それまでの活動を維持することも、新しい回心者をつくることも出来ない、老境期に入って退化しつつある」と。だが、そういう問題ではないだろう。

むしろ、この教会の信仰生活が神の期待されるような形でなされてはいない、という問題を突いているのである。だから、「あなたの行いがわたしの神の前に完全なものとは認めない」(2)と言う。これはどういうことだろうか?

これを理解するために、我々は、黙示録全体にヨハネが与えた表題に注目したい。「イエス・キリストの黙示」(1,1)。また、七つの教会への手紙がすべてキリストの名によって書かれているように、ヨハネは常にイエス・キリストに注目していた。この点が何よりも重要である。

そしてそのキリストとは、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」(1,5)であり、「誠実な方、死者の中から最初に復活した方」(1,4)であり、今も天で生きていて、我々の「労苦と忍耐」(2,2)、「苦難や貧しさ」(2,9)をすべて「知っている」(2,2; 2,9; 2,13; 2,19 ほか)と言って下さる方である。天にいて、しかも地上の最も小さな存在を愛し給う方である。

我々の信仰とは、どんな時にもこのキリストに注目する信仰でなければならない。他のものに目を奪われてキリストから目をそらす時、我々の信仰は「死んだ」ものとなる、とヨハネは言っているのである。

1933年以降、ナチス支配下のドイツでは、アードルフ・ヒトラー(昨日が彼の誕生日だった!)が、アーリア民族こそ世界で最優秀の民族であるという荒唐無稽の理論を展開し、劣悪な民族は根絶やしにしてしまえという政策を実行に移していた。その対象になったのはユダヤ人だけではない。シンテイ・ロマ(ジプシー)、精神障害者、同性愛者といった人々が大量に虐殺された。

このような考えを熱烈に支持したのが、「ドイツ的キリスト者」と自称する人々である。このグループは当時のドイツ教会の大半を占めていたが、やがてヒトラーの直轄支配下に入り、一時は「虎の威を借りる狐」で隆盛を誇った。しかし、彼らは主イエスから目をそらしてヒトラーの壮大なまやかしに目を奪われていたのであり、その信仰は「死んで」いた。あるいは、「死んで」いたからそういうことになったのか?

同じことは、同じ頃の日本でも起こった。日本の教会が、「天皇を神とする」イデオロギーに屈服する形でアジアの諸教会に日本的思想への服従を求めた時、残念ながら我々の先輩たちは当時の支配的なイデオロギーの壮大なまやかしに目を奪われて主イエスから目をそらしたのであり、その信仰は「死んで」いたのである。

ヨハネ黙示録13章には、「海の中から上って来る一匹の獣」(13,1)が登場する。これはローマ帝国のことだ。当時のローマでは、膨大な富と、巨大な政治権力、最強の軍事力を具えたローマ皇帝こそ世界の主・歴史の主であると信じられ、皇帝礼拝がすべての市民に強制された。だが、このような力に目を奪われる時、信仰は死ぬのである。

我々は最も小さなものを愛されるイエスを通じて神を知る。自らを低くされたイエスを通じて人間を知る。すべての人のために命を捧げられたイエスを通じてこの世界を知る。このイエスから目をそらせてはならない。「目を覚ませ」(2)と言われ、「どのように受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」(3)と言われるのは、その意味である。

だが、サルディスにも、「皇帝が主である」とは決して言わず、この「イエスこそ主である」と告白する人々が少数ながら存在した。ヨハネは最後にこのことを認めて慰めの言葉を語る。この人々は「白い衣を着て」(4)キリストと共に歩き、勝利を得、命の書に名を記されるであろう。


 
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