たった一人の先生 アン・サリバン

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

「サリバン先生」アン・サリバンが、3重苦を持ったヘレン・ケラーの家庭教師である事は皆様ご存知だと思います。しかし、アン・サリバン自身が苦境の人生を克服し、ヘレン・ケラーと出会い、世界中の人々を励ます人物を生み出した方である事は、あまり知られていません。今日は、サリバン先生の生涯を紹介させて頂きます。

アンは18年4月14日 マサチューセッツ州フィーディング・ヒルで、アイルランド移民の両親の元に生まれました。3歳の時、目の病気トラコーマになり弱視となりました。家族とともに九歳まで生まれ故郷でで暮らしましたが、アンの父トーマスは、農民で自分の土地を持っていない農業労働者だった為、仕事もあまりなく、家族を養うことを放棄していました。アンが9歳の時に母が亡くなり、、父トーマスは娘アンと弟ジミーを、チュークスバリーのマサチューセッツ州立救貧院[孤児院]に預けて姿を消します。こうして、サリバンの家族は離散してしまいます。

救貧院に入った時、弟はすでに結核により身体が不自由になっていました。救貧院に入って2年後の春、弟ジミーが亡くなりました。父トーマスは、弟が亡くなった後、救貧院を一度だけたずましたが、その後の父トーマスの行方は分かっていません。アンも父を探すことをしなかったようです。

母と弟の死、そして父の失踪と、幼いアンに耐え難い悲しみが次々と襲いました。またアンの目の病気も救貧院に入った後に悪化し、盲目となっていました。弟の死後、アンは生きる力を失い、うつ病になり、食事を全くとらずに、暗闇の中にとどまるようになりました。外界との接触を避け、死を待つような生活を続けていましたが、救貧院の一人の看護婦が毎日、アンを訪ねていたのです。看護婦はアンに聖書の話を聞かせました。最初は全く心を閉ざしていたアンでしたが、看護婦の献身的な愛を受け、次第に心が開かれていくようになり、アンにも信仰が与えられたのです。

アンが十四歳の時でした。州慈善委員会が救貧院を視察したとき、アンは「勉強をしたい!」と、視察団にお願いをしました。その願いが聞かれ、 パーキンス盲学校へ進学する道が開かれました。パーキンス盲学校は、歴史もあり、近代的な設備を持つ盲学校で、当時最も優れていたといってもよい学校でした。しかし、出自に負い目のあるアンは、家庭や救貧院での暗い過去を、周囲の人に隠し通しました。アンは、生涯、自分の子供時代、少女時代のことについて、多くを語ってはいないのです。

入学後、アンは、不自由だった目を手術してもらって、なんとか文字が読めるほどに視力が回復しました。政治記事を読んだり、裁判を傍聴したりと、アンの生活はどんどんと広がっていったのです。また、在学中に視覚、聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと出会い、友達になりました。ローラとの親交と自身の盲目の経験が、後のヘレン・ケラーの教育に生かされたと言われています。アンとローラは指文字で交流していました。入学当時のアンは、その生い立ちにある心の傷から、人を信頼し、心を開く事が難しかったのですが、ローラとの親交や、アンを受け入れ愛を注いでくれた先生達の愛を通して、積極的な態度で勉強に打ち込み、体面を取り繕うのではなく、誠実な付き合いを望むように変えられていきました。

入学から年後の188年、アンは卒業生総代としてスピーチを行いました。また、卒業と同時に、聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グレアム・ベル(電話の発明者として知られる)の仲介でアンの卒業した盲学校のアナグノス校長が、総代で卒業したアンに、アラバマ州タスカンビアに住んでいたケラー家で「ガバネス」として住み込みで働かないかと誘います。ガバネスとは、家事を担ったり、子供の教育をしたりする 家政婦のことで、教員資格がないばかりか高校も卒業していないアンでしたが、家政婦であれば彼女でもできる仕事だと考えたのでしょう。しかし、ケラー家は、大農園を持ち、黒人の使用人も抱えていましたから、家政婦がほしかったわけではなく、必要だったのは、ヘレンの教育係りでした。

アンはこの話を受けました。3月3日、アンがアラバマ州タスカンビアのケラー家に着任した時、彼女は22歳でした。アンは、それまで主に、孤児院と救貧院で過ごしていたために、就職した経験はなく、教師になるための資格も持ってはいませんでした。しかしアンは着任当初から「この仕事に心をこめて献身しよう」と、彼女は自分が心を開いた経験から、信仰と愛をもってヘレンを育てようと心に決めていたのです。

アンがヘレンに会ってから十七日後、知人に宛てた手紙で「ヘレンに奇跡が起こりました。小さな生徒の心に、知性の光が差し込みました」と書きましたが、これは、「怪物」(ファントム)と呼ばれていた野生児ヘレン・ケラーが、アンにキスすることを許してくれた日でした。

こうして、信頼して心を開いて、従うようになったヘレン・ケラーは、アンと出会って約1ヶ月後に井戸の水の流れからインスピレーションを得て、ものには名前があることを理解します。その時の事をアンはこう綴っています。

「ある新しい明るい表情が顔に浮かびました。彼女は何度も「water」と綴りました。それから、地面にしゃがみこみその名前をたずね、ポンプやぶどう棚を指さし、そして突然ふり返って私の名前をたずねたのです。私は「Teacher」と綴りました。」

アンは自分のことを「アン」でもなく、「サリバン」でもなく、「先生」と答えました。後にヘレンは「私の誕生日は1880年6月27日ではなくて、私の生活の中にアン・サリバンが入ってきた1887年3月3日です。」

と語っているほどです。ヘレン・ケラーが先生と呼んだのは、生涯でアン・サリバン一人だけでした。

サリバン先生はこの後、約50年ヘレン・ケラーと共に歩みました。三重苦を克服し、ラドクリフ大学(ハーバード大学の女子学部)へ入学をし、その後、世界に名を残す人物となったヘレン・ケラーの生涯は、「サリバン先生」の愛、忍耐、希望によって導かれ、開かれていったと言っても過言ではありません。

最後にサリバン先生が残した言葉をご紹介します。

「失敗したら初めからやり直せばいいの。そのたびはあなたは強くなれるのだから」

(LVJCCブログ制作チーム:薫)

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