”高貴な生き方”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、‘高貴な生き方’について考えてみました。ところで皆さんは、どんな人生を送りたいと願っておられますか?もちろん、自分の願い通りにはならないのが人生ですが、少なくとも、こんな人生を生きたい、という目標を持つことは大切なことだと思います。フランス語に、ノブレス・オブリージュという言葉があります。これは日本語に訳すと‘高貴なる義務’という意味です。つまり、王侯貴族のような富や権力を人よりも多く持っている者は、それだけ人よりも多くの社会的義務と責任があるという考え方で、これは「多く与えられた者からは多く求められる」という聖書の言葉がその土台になっています。また、この考え方はヨーロッパにおける指導者観の基本で、その源流は‘騎士道’つまり‘ナイトの精神’であり、‘紳士の道’つまり‘ジェントルマンシップ’ということです。優れた勇気と力、自制心、高潔さ、犠牲的精神などを備え、何かあれば真っ先に自分が危険の矢面に立って人々を守る、それが高貴な生き方をめざす者の生き方であろうかと思います。かつてのイギリスにおいて、第一次、第二次大戦で、最も戦死率が高かったのは、オックスフォード大学等の名門の出身者であったそうです。いわゆる上流階級の子弟も、危険な第一線で戦うのが当然とされたわけで、本当のエリートとは、‘人を出し抜いて、特権の甘い汁を吸う’人種ではなく、反対に、社会のため、民衆のために、自らすすんで犠牲になっていく人々だったのです。 1982年1月、飛行機事故で乗客全員がワシントンDCのポトマック川に投げ出されるという惨事がありました。氷結した酷寒の川の水温は零度。体が凍えていく中、氷の割れ目から助けを求める人々の声が続きました。やっとのことでヘリコプターが救援に駆けつけ、投下された浮輪や命綱につかまって、一人また一人と救出されますが作業は思うようにはかどりません。30分で絶命すると言われた冷たさで、時間との戦いでした。そうした中に、一人の中年の乗客がいました。クリスチャンの彼は、自分が助かるチャンスを得ながら、「あなたが先に助かりなさい。私は大丈夫です」と言って、二度もそのチャンスを他の人に譲ったそうです。あえて後回しになった彼は、ついに力尽き、命を失いました。この事実が、関係者から明らかにされた時、世界が泣き、多くの人々が深く胸を打たれました。一人の‘高貴な生き方’をする人が登場する時、瞭原の火のように、人間性の光が広がります。 もうひとつ、こんな話があります。イギリスのある川が洪水になり、一軒の家が流されかけました。そこを通りかかった金持ちが、「だれか家の中の人を助けた人に、賞金を出す」と呼びかけました。しかし、急流を前に人々はひるんでしまいます。その時、一人の青年農民が走り出て、無言で激流に飛び込みました。そして、家の中の人たちを無事に助け出し、その直後、家は激流に飲み込まれてしまいました。まさに間一髪。見ていた人々は皆、勇者を喝采しました。そこで金持ちは喜んで、青年に賞金を与えようとしました。しかし、青年はその賞金を辞退し、こう言ったのです。「私は自分の生命をお金で売ろうとは思いません。むしろ、この人たちこそ、家を流されて大変でしょうから、お金はできれば、この人たちに差し上げて下さい」。生命をかけた自分の行動が、金銭に換えられることを潔しとしない。この生きる姿勢こそ、まさに‘高貴な生き方’です。もちろん、そういう生き方が誰にでもできるわけではありません。しかし、そういう生き方を全うした人々のことを思い、‘自己中心の生き方’になりやすい私たちの自戒としたいと思います。イエス・キリストは、「人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と教えられました。そして、その自らの教えどおり、その尊い神の子の命を、あなたの永遠の救いのために犠牲にされたのです。これこそ、まさに‘高貴な生き方’の究極の見本だと言えます。今日の一言: 高貴なる生き方を心に留めよう平安鶴田健次