ヨハネはアジア州(現・トルコ西部)の七つの町にある教会に手紙を書いた。それを一つ一つ取り上げて学んで来たが、フィラデルフィアは既に取り上げたので今回は飛ばす。今日は最後のラオディキア教会への手紙だ。この町は地図には載っていないが、エフェソから真東に約150km、内陸地にある町だ。交通の要衝にあるために銀行など金融業で栄えた。黒い羊毛で織った毛織物の産地としても知られる。その他に、有名な医学校があり、ここで作られる目薬は有名であった。
さて、この町の教会に対しては、天上のキリストは厳しい叱責の言葉で始める。「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(16)。これはどういう意味だろうか?
ある学者は、この文章にはラオディキアの水事情の悪さが反映している、と説明する。上流で湧いた新鮮な湧き水を上水道で引いているのだが、それが部分的には日向の管を通るので、この町に着く頃には「生ぬるく」なっていて飲めたものではないというのである。面白いが、文章の意味を説明してはいない。
よく聞くのは、「熱い」を信仰的熱心と捉え、「冷たい」を反抗的態度、「なまぬるい」を微温的でどっちつかず、とする解釈である。信仰生活においては「熱心」であるに越したことはない。「冷たい」反抗的な態度にも、まだ見込みはある。一番悪いのは「なまぬるい」ことだ。我々の体験からも、この解釈はよく分かる。
しかし、私には、これを17節の言葉と結びつける読み方が一番説得的だった。つまり、ラオディキア教会の人々は、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」(17a)と言っている。経済的な意味ではない。信仰的な意味において自己満足し、思い上がっている。「なまぬるい」とはそういうことだ、というのである。
しかし、自己満足しているが実際は「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17b)、という。これが「生ぬるさ」のもう一つの側面だ。思い上がりは自分の惨めさをさらけ出すだけで、自分が本当は哀れな者・貧しい者であることを知らず、物事の真実が見えていないことに気づかず、神の前で何もかも見通されて救いへの保証を持つことも出来ない裸の存在であることを知らない。
この「なまぬるい」ラオディキア教会の人々に対して、天上のキリストは勧める。「裕福になるように、火で精練された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(18)。
ここでは確かに、この町の状況が一々反映されている。「火で精練された金」、つまり純粋な金はこの町の銀行に貯えられている。「白い衣」はこの町で生産される毛織物を、「目に塗る薬」はこの町の有名な粉末目薬を連想させる。生活を守り、豊かにするために、あなたがたはこれらの物を手に入れようとするではないか。
経済的な豊かさも大切だが、それよりも信仰的な意味で本当に豊かになるために、あなたがたは銀行やアパレルメーカーや薬局ではなく、必要なものを「わたしから」、つまり主イエスから手に入れるがよい。それが「悔い改め」(19)である。
最後に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(20)という言葉に注目したい。これが終末の時に再び来たり給うキリストを指していることは明らかである。この呼びかけに応えて彼を迎え入れる者は「共に食事をする」。つまり、神の国で祝福に与る、というのである。
再臨の主イエスが戸口をたたく、という。乱暴に「開けろ、開けろ」と拳固で叩くのではない。彼は静かに、聞こえるか聞こえないかといった静かさで、我々の良心の深みにしみ通るような仕方でノックしているのではないか。
確かに黙示録には、主イエスが力強い、大きな声を持つという記述もある。「ラッパのように響く大声」(1,10)とか、「声は大水のとどろきのようであった」(1,15)とか。しかし、ちょうど「休止符」のように、静けさも重要な要素としてある。これを見落とすのは良いことではないだろう。「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた」(8,1)。この静けさ!
そもそも聖書では、ここぞという重要な場面で物事を決定するのは威嚇的な大声ではなく、静かな細い声である。預言者エリヤが荒れ野で絶望していたとき、彼を立ち上がらせたのは「静かにささやく声」 (列王記上19,11-12) であった。預言者イザヤは、「主の僕」と呼ばれる不思議な人物についてこう歌っている。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」(イザヤ書42,2)。
1977年のクリスマス頃、私はガーナ長老教会の招きで二週間、赤道直下のガーナに滞在した。あの国では、ノックはしない。しようにもドアも鍵もない。円形の家の壁に人が一人通れる位の穴が空いており、訪ねて来た人はその外側に立って、のびやかに「アゴー」と呼びかけるのである。中から「アメー」という答えが返ってくれば、「どうぞお入り下さい」というしるしだ。人が呼びかけ、人が答える。
主イエスのノックも、そのような人間らしい応答を呼び起こすためのものではないだろうか。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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