「偶像を拝まない」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

第二戒は偶像を刻んだり、それを拝んだりすることを厳しく禁じている。しかし他方、人間には自己の内面のリアリテイー(現実)を芸術など文化的営みの中で「表現」したいという止み難い欲求がある。両者の間には緊張関係があって、そこから二つの類型が生じる。

第一の型は、例えばマルク・シャガールだ。彼はロシアのビテブスクという町で、敬虔なユダヤ教徒の家庭に生まれた。家族は、絵を描くこと自体が「偶像禁止」の戒めに背くと言って、画家になることに反対する。しかし、シャガールにはどうしてもそうは思えない。「偶像禁止」の本来の意味は、この世の現実を形に表すことによって「内面的なリアリテイー」を弱めてはならないという点にあると信じていた。だから彼は、優しい動物たちや、時間空間を超越した歴史的情景を描くことによって、「魂が自分を取り戻すようなもう一つの現実を新しく創造した」(フランツ・マイヤー)のである。彼の場合、「偶像禁止」の掟が創造的な仕事のバネになったと言ってもいい。

第二の型は、例えばイスラーム原理主義集団「タリバーン」であろう。彼らは「偶像禁止」の戒めに従って「バーミヤンの石仏群」を破壊した。世界中から抗議と嘆願が殺到したが、一切耳を貸さなかった。「偶像禁止」は文化否定につながった。

キリスト教の中にも似たような例がある。初期の日本のキリスト教はピューリタン的道徳の影響を強く受けたと言われるが、その頃、米国宣教師の指導を受けたある先輩牧師は、私にこんな話をしてくれたことがある。宣教師は、「道端で地蔵を見たら、それに向かって放尿(!)するように」と教えたらしい。多分、町中にある夥しい「偶像」を見てショックを受け、第二戒を真面目に実行してあらゆる偶像を否定することこそ日本宣教の要だ、と考えたのではないか。

むろん、「無力で無意味な偶像」というものも存在する。預言者イザヤが皮肉たっぷりに指摘している通りだ。「木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が暖まると、『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と」(イザヤ書44,16-17)。

このような偶像は、人間の欲望の反映に過ぎない。自己の欲望を神とし、エゴイズムを神格化したものだ。権力を偶像化することもある。このような偶像が人を救うことはあり得ない。この意味で「偶像を刻んではならない、拝んでもならない」というのである。

しかし、私たちの世界には、「無力で無意味な偶像」だけが存在するわけではない。実は、私は古いお寺や仏像が好きだ。仏教が日本にやって来たのは今からおよそ1300年前だが、それ以来、法隆寺など数々の素晴らしい建築物や美しい仏像を夥しく生み出した。もちろん、聖徳太子に代表されるような宮廷や上層部がこれを支えたという事情もあったろうが、それにしても、名もない宮大工や仏師たちの信仰と精進がなければとても不可能だったろう。これは、信仰が生み出した形(優れた文化)なのだ。

もちろん、同じことは西洋についても言える。信仰が生み出した美しい「像」や「形」。「内面的なリアリテイー」の優れた表現。偶像禁止の掟は、それまで否定するものではない。ジャン・カルヴァンが第二戒に関連して、「あらゆる彫刻や絵画が全般的に禁じられていると考えるべきではありません」(『ジュネーブ教会信仰問答』問148)と教えた通りである。我々は、「無力で無意味な偶像」と、「内面的なリアリテイーの表現としての形」とを、賢く見分けなければならない。

 さて、さらに進んで第二戒の本来の意味を明らかにしたい。

旧約学者によると、初期のイスラエル宗教においては、ヤハウエの像を造って拝むこともあったらしい。しかし、後にカナン土着の「バアル宗教」との混交が起こり、イスラエル民族が好んでバアル像やアシェラ像を礼拝に取り入れ始めた時、本来の信仰をこれらの偶像礼拝から峻別する必要があった、と言う。

その事情を明らかにしているのが、申命記4,9-29である。ヤハウエがホレブ山で自らを啓示したとき、「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった」(12)。つまり、ヤハウエ信仰の本質は、人や動物や天体といった被造物の形に閉じ込めることにはなく、神の言葉を聞くことにあった、というのである。シャガールの理解と共通している。

とすると、第二戒は何よりもイスラエル自身の信仰を正すための神の言葉だったと言わねばならない。「解放して下さった主」と「解放されたわたしたち」との間に始まった人格的信頼関係(契約関係)の中で、我々の真実な生き方を求める神の言葉が語られた。それに聞くべきであり、私たちが目で見ている表面的な「現実」を形にして、それに頼るべきではない。「あなたはいかなる像も造ってはならない」!

当時も今も、聖書の神以外の神々を信じる宗教は多くあり、そこでは、その信仰に基づいて、高い内容のものや愚劣なものに至るまで、さまざまな像が造られる。第二戒は、そのことをとやかく言っているのではない。他宗教のことはどうでもいい。

しかし、「あなたは」あの契約の主が語られる言葉(内面のリアリテイー)に忠実でなければならない。これが、第二戒の本来の意味だったのである。


 
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