私たちの教会の「宣教基本方針」(1997年採択)第5項に、
「戦争責任告白」に基づき、殊にアジア諸教会との交流を重んじる
とある。これまでも時々、韓国や中国の兄弟・姉妹をお迎えしてお話しを聞いたり、昨年は韓国に研修旅行に行ったりしたが、その根本的な動機はこの第5項だった。つまり、「アジア諸教会との交流」というのは、知的好奇心による、あるいは単に「仲良くしよう」という程度の交流ではない。かつて日本がアジアに対して「したこと」、あるいは今日も「していること」をはっきりと認識した上で、互いに主イエスに従う者としての交わりを深めるということだ。前半の「戦争責任告白に基づいて」という一句はこのことを言っているのである。
さて、「アジアキリスト教協議会」(CCA)は1974年以来、聖霊降臨祭の前の日曜日を「アジア祈祷日」と定めて共に考え・祈るように加盟教会に呼びかけてきた。我々は毎年これに応えて来たわけではないが、今年は「東ティモール」の問題を取り上げるという時宜に適った企画なので、今日の礼拝をこのような形で守ることを役員会で決めた。主題は「東ティモール――新しい生命(いのち)への希望」である。
先ず「東ティモール」について概括的に述べたい。インドネシア列島の東南の端に、ティモール島がある。島の西側はインドネシアの他の島々と同じようにオランダの植民地だったが、東側は1520年以来400年以上もポルトガルの植民地であった。1945年にインドネシアがオランダから独立した時、「西ティモール」は当然インドネシアに帰属したが、「東ティモール」は依然ポルトガルの支配下にあった。ポルトガルがこの海外領土を放棄したのはそれから20年後(1975年)で、この時、独立派は当然、「東ティモール」独立を宣言した。しかし、「東ティモール」への主権を主張するインドネシアはこれを認めずに軍を派遣して占領し、以後20年以上にわたる恐怖政治が始まった。虐殺・強制移住・焼き討ちなどが繰り返された末、1999年夏、国連が介入して国民投票を行い、漸く独立が決まった。つまり、「東ティモール」は長い間の「植民地支配」の苦しみから遂に解放されたのだ。心から祝福したい。
そもそも「植民地主義」とは、「力のある国」が「資源しか持たない国」を徹底的に利用することである。主イエスの教えに従うなら、こんなことは許されない筈だ。西欧の「キリスト教国」が先を争って植民地経営に没頭したのは恥ずべきことである。
植民地経営には二重のメリットがあると言われる。すなわち、1.原料を収奪する、2.生産物を売り捌く市場として利用する。西欧の先進諸国はこれによって莫大な富を蓄積した。その犠牲になったのが、アフリカ、中南米、そしてアジアである。アジアで植民地にならなかったのはタイと日本だけだが、植民地化を免れるために必死の努力をした日本が、西欧諸国の大きな罪に倣って台湾・朝鮮・中国東北部(満州)を植民地化したことは皮肉なことだ。しかも、「東ティモール」とも無関係ではない。日本は東南アジアの資源を収奪する目的でインドネシアに進駐したが、その際、「東ティモール」でもひどいことをした。このことを現地の人々は忘れていない。
現在、人口80万人、一人当たり国内総生産(GDP)304ドル、国民の半数が1日1ドルで暮らし、平均寿命は57歳、失業率80%、国民の半数以上は字が読めない、といったデータを見ると溜め息が出る。しかも、これらの殆どは「植民地主義」という罪がもたらした無残な結果に他ならない。
我々は今日、「東ティモール」の独立を祝福し、将来のために祈る。日本政府も援助すると言っている。それは良い。だが、余り大きな顔をすることは出来ないであろう。我々の祈りや援助は、真摯に自らの「罪責」を告白することから始まらねばならない。
さて、今日の礼拝用式文は、「東ティモール」プロテスタント教会の協力で出来た。この礼拝で使う聖書箇所は、すべて彼の地の兄弟・姉妹たちが選んだものだ。その中で、ヨハネ福音書 16,20-24 について共に考えて、この説教を終わりたい。
これは、十字架にかけられる直前に主イエスが行った「告別説教」の一部である。この中でイエスは、弟子たちに向かって「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」、「あなたがたは悲しむ」(20)と言っている。彼の十字架の死という悲しい事件が起こることを予告しているのだ。
だが、「その悲しみは喜びに代わる」(20)と言って、それを「産みの苦しみ」になぞらえている。悲しみから喜びへ!このイエスの言葉は、「東ティモール」のキリスト者たちにとっては、単に2000年昔の出来事を解明しているだけではない。彼らはこれを「自分たちの物語」として読んでいるのである。アメリカ南部の黒人奴隷たちも、モーセによるエジプトからの解放の物語を読んだ時、それを「自分たちの物語」として読み、こう歌った。「エジプトよ、イスラエルの民を放て。虐げを受ける民を放て。行け、モーセ、ファラオに語れ。『主の悩める民を放て』」(黒人霊歌)。
いつの時代でも、この世の貧しい人々・虐げられている人々は同じように、聖書の中に自分たちの解放の物語を読み取るだろう。聖書はこの読み方を許容する。
「東ティモール」で400年以上も続いた植民地支配と恐怖政治の悲しみが、今、独立の喜びに変わる。もちろん、今後も問題は尽きないだろう。だが彼らは、「悲しみから喜びへ」という体験をイエスの十字架と復活に重ねることで、「新しい生命への希望」が本来どこから来るかを証ししているのではないだろうか。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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