「神はどのようなお方なのか」ヨハネ16:1-15中村吉基

イザヤ書40:12-17;ヨハネによる福音書16:1-15

イザヤ書40:12-17;ヨハネによる福音書16:1-15

皆さんは一日の中で何度神さまのことを思い出すことがあるでしょうか。日曜日に教会にいるときには神さまを意識しているのに、教会を出た瞬間に神さまを忘れてしまっているというようなことはないでしょうか。教会ではクリスチャンらしい顔つきをしていても、一歩外に出れば自分がクリスチャンであることも隠してしまうことはないでしょうか。しかし、神さまのほうは私たちがいくら忘れてしまったからと言って、私たちのことをお見捨てになったり、忘れてしまうことがないお方です。でも、それをいいことに神さまのことを自分の都合の良い時だけ思い出して、自分勝手に使い捨てにする人がいます。自分の気分が向いた時だけ、必要な時だけ神さまを便利に出してくる人がいます。主イエスは仰せになりました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)。

今日私たちは三位一体主日を祝っています。今日この日に神が、あるいは主イエスが、そして聖霊が私たちにつながっていてくださるということを知る日です。そして神はいつも私たちと一緒に居てくださり、神のものは私たちのもの。私たちは神のもの。神は私たちの親であり、いつも私たちを見守っていてくださるお方です。私たちは神につながっていることを実感するためにこうして日曜日を、私たちは「主の日」と呼んで神を礼拝し、賛美し、感謝をあらわし、祈るのです。聖霊降臨日の次の主日すなわち今日は三位一体の神を称える日ですけれども、私たちは去年の12月の待降節から半年間、主イエスの降誕、生涯、受難、復活、昇天そして先週の聖霊降臨と大きな神さまの救いのわざを憶えて過ごしてきました。そして来週からの半年間は「教会の半年」と言いまして、聖霊降臨から始まった教会が現在に至るまで神さまの大きな救いが宣べ伝えていることを憶えて過ごしていくのです。

さて教会では、「父と子と聖霊」「三位一体」という言葉をよく耳にします。初めて教会にお越しになった方はいったい何のことだろうと思われるのではないでしょうか。三位一体とは「神とイエス・キリストと聖霊とはそれぞれ別のお方でありながら、唯一の神さまです」ということです。頭の中が混乱してしまうかもしれません。昔、アイルランドで活躍し、今ではアイルランドの守護聖人になってもいる聖パトリック司教という人にこういう逸話があります。ある時、パトリックは王に呼ばれて「神さまはお一人なのか、三人なのか?」と尋ねられました。そのときにパトリックは三つ葉のクローバーを使って説明したと言われています。今度はパトリックが王に三つ葉のクローバーを見せて「このクローバーは一つでしょうか? 三つでしょうか?」と尋ねてみました。王は結局判らずに降参してしまったということですが、パトリックはこう言いました。「神もそのような方なのです」と。

実は「三位一体」という言葉は聖書のどこにも出てきません。これはキリスト教が当時のヘレニズム世界に広まっていった時に編み出されていった信仰概念です。しかし、聖書の端々からその概念は生み出されました。私は先ほどから神さまを「実感」するという言葉を何度か使いましたが、三位一体の教えは神学者たちが知恵を絞って考えついた概念ではありません。初代のクリスチャンたちが実際に信じ、告白し、賛美し、祈ったことの内容を吟味し、総合的にまとめてそれを定式化したものです。私たちはこのように教会で信じられていることというのは偉い人たちがどこかで相談して決めたことだと思いがちですが(実際に「公会議」などで決定されることもありますが)、たとえばそういうように決定されたことを「三位一体が何月何日から決まりましたので、皆さんぜひ信じてください」などと言われて、「ああそうなんですか。三位一体ね・・・」と急には信じることができないでしょう。歴史の中では「信仰」がまずあって、神学とか教義というものはそれに後付けしたものが多いのです。

さて、今日のヨハネによる福音書16章は「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」(1)という主イエスの言葉によって始まります。「これらのこと」とは弟子たちの対しての「この世」からの迫害のことです。「つまずく」というのは迫害によって信仰を棄ててしまうことです。主イエスはどんな時にも信仰を棄てることのないように励まし、絶えず聖霊の導きがあると諭しました。しかし弟子たちが会堂から追放される日が近いのです。会堂から追放されるということはユダヤ人社会からのけものにされるということです。なぜこのようなことが行われるのか、それは3節にありますように「父もわたしをも知らないから」だというのです。ユダヤ人たちは神とイエスが一つである(ヨハネ10:30)ことを知らないためであり、また主イエスが「弁護者」「助け手」とお呼びになった聖霊もこの神とイエスの交わりの中で働いてくださるのです。主イエスは迫害が起こった時には主イエスがお語りくださった言葉を思い起こす必要があるというのです。なぜならそれは神の言葉であり、迫害に耐えうるものであるからです。

主イエスは、2000年前に地上での生涯を送られました。主イエスの教えの中心は「神の国」の良き知らせ(=救い)を伝えることでした。言葉と生きざまをもって、天におられる私たちの神さまを指さして示してくださいました。主イエスがこの地上に遣わされたのは神と人間は、人間側の罪によって断絶していましたが、その和解の使者として主イエスが送られてきました。これは神の側からの救いの働きかけでした。弟子たちは主イエスの生涯と十字架での死、三日目に復活された出来事を見て、そのことを確信しました。この「確信」を弟子たちは「イエスは主である」(イエスこそが救い主メシアである。ロマ10:9、Iコリ12:3)という言葉で表現し、人々に伝えて行きましたが、その宣教の働きのさなかに、自分たちがいつも神によって支えられ、大きな力で導かれていることを「実感」したのです。その「実感」を彼らは「聖霊が私たちのうちに働いている」と告白したり、「復活して今も生きておられるイエスがともにいる」と言いあらわしたり、書き記したりしたのです。その当時から2000年後の現在に至るまで、代々のクリスチャンが経験してきていることだとも言えます。

主イエスご自身が真理の道であり、永遠の命に通じるお方ですが、主の働きは2000年前のパレスチナに限定的になされたのに対して、聖霊は歴史的な時間も空間も超えて永遠に働いてくださいます。8節に「その方が来れば」とあります。その方とは聖霊のことです。聖霊はこの世の過ちを示し、裁かれるといいます。

12節からのところをお読みします。

12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

私たちは2000年前の主イエスが教えられたこと、行われたことを、教会を通じて、聖書を通じて知ります。そして主イエスに従う者はその教えを日常の生活の場で実践し、主イエスにつながっています。主イエスは時代を超えてこの現代の私たちに今日も語りかけておられることを皆さんは「実感」しておられるでしょうか。また聖霊はいつでも、どこでも、時代も時間も場所も超えて絶えず私たちの心の中で働いてくださいます。ある時は心を燃やし、ある時は悲しみを慰め、ある時はその光で照らし、憩いを与え、苦しむ時には励ましてくださる聖霊を神さまは私たちに注いでくださっているのです。皆さんは聖霊の働きを「実感」しておられるでしょうか。三位一体主日は三位一体の教義や仕組みを理解する日ではありません。私たちは、主イエスのみ言葉と生きざまから学び、私たちの心に直接働きかける聖霊に支えられて、天の神さま、世界といのちの造り主である神さまに向かって歩みます。普段の生活の中で祈ることを通しても三位一体の神さまを「実感」することができるでしょう。聖霊が働いてくださるから私たちは祈ることができます。私たちは自発的に祈っているのではないのです。聖霊が私たちをいつも導いてくださっているのです。そして私たちの祈りは、いつも主イエスの聖名を通してお祈りし、その祈りは天の神にのもとに献げられるのです。この三位一体の神を私たちは「実感」しているでしょうか。私たちの計り知れない大きな信仰の枠組みのもとに私たちは生かされているのです。

皆さんも、ここでこう説教を取りついでいる私も、普段の生活では疲れ、神を実感できない時があります。牧師だからといって、強いわけではない。長い信仰生活をしてきた人でも神が見えなくなる時がある。私も神さまのみ前では一人のちっぽけな人間に過ぎません。しかし、私は皆さんにこういうことが言えます。私は人間の力を信じていません。神の力だけを信じています。「絶対」という言葉は神さまの事柄だけに使うのですが、神さまの力は絶対です。パウロは言いました。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(IIコリ12:10)。「弱い時にこそ強い」。私たちには神さまの力が宿っているのです。神さまが働くところはすべて強いのです。

あのマザー・テレサがコルカタで最初にスラムに入って行ったとき、迫害の嵐でした。資金も無い、場所も無い、人材も無い、そんな時にマザーはこう言ったそうです。「自分一人では何もできない。しかし神が居てくださるから何でも出来る」と。私たちもそうです。神が働けば、正しい方向に導かれます。それがたとえ自分が思っても見ない方向であっても、です。神さまが皆さん一人ひとりを通して、良いことを起こしてくださいます。今、どんなに力を無くしていても、自信が無くても神は私たちの心と身体を通して働いてくださいます。なぜなら神は私たちの神であり、私たちは神のものだからです。

13節で「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。「ことごとく悟らせる」ところを「あらゆる真理に道案内するだろう」という訳をされた方がありました。その道とは主イエスご自身に通じる道です。古来から信仰は道に、信仰者は旅人になぞらえられてきました。聖霊が神に、主イエスに通ずる道を造ってくださいます。神が持つすべてのものを主イエスにも与えられています(17:10参照)。聖霊はそれを弟子たちに分け与えます。主イエスはそのことを最後の15節のところで「『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」と言われています。私たちが信じる神はこのような神なのです。

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