「信仰の厳しさ」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

第一戒は、新共同訳では「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」となっているが、文語訳ではもっと強い調子で、「汝、わが顔の前に我のほか何物をも神とすべからず」である。我々は、一方ではこの戒めを「信仰の厳しさ」を教えるものとして積極的に受け止めなければならない。植民地支配下の朝鮮で神社参拝を強要されたキリスト者たちが多くの殉教者を出しながら抵抗したとき、その拠り所は第一戒であった。ナチス支配下のドイツで「告白教会」が教会闘争を繰り広げたときも、同様である。第一戒は信仰の節操を要求する。先ず、この点を強調しておきたい。

しかし他方、第一戒は現代日本の知識人たちの間で余り評判が良くない。「唯一神教」は、自分たちの信仰こそが絶対に正しいと「排他的に」主張するので、一旦別の「唯一神教」との間で対立が起こると、妥協も融和も不可能になる。パレスチナで繰り広げられている際限のない報復合戦は、二つの「唯一神教」の衝突に原因がある、というのである。

パレスチナだけではない。北アイルランドの場合はカトリックとプロテスタントの争いが背後にあったし、昨年9月11日の「同時多発テロ」はイスラーム原理主義者の犯行とされ、これに対してブッシュ大統領が、いわば「キリスト教原理主義」の立場から直ちに「十字軍だ!」と息巻いたことは記憶に新しい。

もちろん、こうした紛争の場合は政治的・経済的に複雑に絡まり合った事情があり、「宗教対立が原因である」などと短絡的に断定することは許されない。しかし、多くの現代人が、第一戒は近代社会の要件である「寛容の精神」に反するとして、疑問ないしは反感を抱いていることは知っておいていい。これに対して東洋の多神教的な文化圏では、昔から神々は概ね平和に共存して来たではないか、「唯一神教は争いを生み出すもとだ」、と東洋の思想家たちは言う。

 では、我々は第一戒をどのように理解すれば良いのか?

 先ず、代表的な旧約学者たちの共通理解を指摘しておきたい。それは、第一戒は他の神々の存在を否定しているのではなく、むしろ前提している、そこで問題になっているのは「唯一神教」というよりは「拝一神教」だ、ということである。

 「拝一」とは何か? 岩波版「旧約聖書」II(旧約聖書翻訳委員会訳)では、「神ヤハウエに向き合っているイスラエル、また『奴隷の家』からの解放という恩恵を歴史において経験したイスラエルが、ヤハウエ以外の神と関係を持つことはありえない」(91頁)と説明されている。「他の神々が、あなたのためにわたしの面前にあってはならない」(木幡訳)という訳はこの理解に基くものだ。

 この理解が正しいなら、第一戒は「偏狭で排他的な唯一神教」ではない。あの当時、周辺世界には多くの神々が存在した。それらの神々に誘われる危険も事実上強かったので、自分たちの信仰の節操を守ることが必要であった。この意味において、第一戒に「排他性」があることは否定出来ない。「他の神々に犠牲を捧げてはならない」(出エジプト記22,19)、「他の神々の名を唱えてはならない」(同23,13)、「他の神を拝んではならない」(同34,14)などと言われているのはそのことを示している。

しかし、この排他性は本来、他宗教を攻撃したり否定したりするためのものではなかった。それよりも、契約の神に対する節操を失わないために先ず厳しく自らの内に向けられた反省なのである。他宗教のことはさておいて、先ず、自分たちの信仰を厳しく問わねばならない。自分たちをエジプトから解放し・契約相手として選んで下さった人格神ヤハウエに対する節操を守っているかどうか。これが、他のすべてに勝って重要な問題だったのである。

 D.ボンヘッファーが十戒に基づいて「罪責告白」を書いたのは、正にこのためだった。彼は、何よりも教会の覚醒を迫るものとして十戒を受け止め、しかも、主イエス・キリストに対する節操を自らに厳しく問いながら、「教会は告白する」に始まる十の罪責告白を書いたのであった。第一戒に相当する所は次の通りである。

「教会は告白する。――教会は、すべての時代のためにイエス・キリストにおいてご自身を啓示された神、ご自身と並ぶいかなる他の神々をも認められないひとりの神についての使信を、十分公然と、明確に、宣べ伝えることをしなかった。教会は、この小心・逃避・危険な譲歩の罪を犯したことを告白する。…教会は追放され・蔑まれた人々に対する義務である憐れみの手を差し伸べることをしばしば拒絶した…。教会は、罪なき者の血が天に向かった叫んでいる時にも、口をつぐんだままであった」(『現代キリスト教倫理』70頁)。

「ご自身と並ぶいかなる他の神々をも認め給わないひとりの神」という言葉は、直前の「イエス・キリストにおいてご自身を啓示された神」という言葉と切り離して理解されてはならない。ボンヘッファーにとって、「ひとりの神」(=唯一の神)とは、「キリストにおいてご自身を啓示された神」以外の何者でもない。そしてキリストとは、彼がそれに続けて述べているように、「追放され・蔑まれた人々に対する義務である憐れみ」を実践した方であり、「罪無き者の血が天に向かった叫んでいる時に」、彼らに代わって叫んだ方であった。要するにキリストとは、人間に対する神の深い愛を証しして十字架上で全人類の罪を負われた方なのである。

このように、キリストを通して第一戒を受け止めた彼の姿勢は、私たちにとっても極めて重要な意味を持って来るであろう。


 
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