「霊に満ちたうめき」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「うめく」などということは、できるなら避けたいものです。そこにはきっと、過去のとりかえしのつかない過ちに対する苦い後悔と、八方塞で出口の見えない現在の苦しみ、そして孤独があり、また自分の無力さに対する絶望があるのでしょう。また「うめく」人が元気一杯とは考えられません。むしろ疲れ切って、生きる力を半分失っているように思われます。

 私たちは、それだけいっそう「強さ」にあこがれます。「うめく」のは、その人が弱いからだと考えるのです。もし私が強ければ、過去のしがらみを自力で振り切り、鋭い眼力で進むべき方向を見定め、目標に向かって脇目もふらずに一直線に進むことができるでしょう。そうして「弱さ」を克服したとき、私は自信と輝きを取り戻すことができるし、友人たちも、そんな私を賞賛の眼差しで迎え入れるだろうと考えます。

「うめき」を逃れて「強さ」を志向する傾向は、人間同士の関係のみならず、自然界に対する人間の態度にも当てはまります。近代の科学技術は、自然を神の被造物としてというより、むしろ人間に対する脅威と捉え、これを人間の利益に奉仕するための資源へと変えることに、ほぼ成功しました。私たちは「弱さ」を打ち破って「強さ」に到達し、賞賛を手に入れ、もはや「うめき」から永久に解放されたかに思われました。しかしまさにそのときやってきたのが戦争であり、環境破壊であり、暴力と報復の連鎖であったと考えるべきです。私たちは、自分と他者、および自然界に向けられた破壊衝動と、どう取り組めばよいのでしょう。

パウロもまた「うめき」、あるいは「現在の苦しみ」について語っています。しかもそうした苦しみは、「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らない」(18節)と確信をもって語ります。彼の言葉に耳を傾けましょう。

 

被造物は、人間のせいで虚無に服している。しかし人間たちが神の子らになるそのとき、滅びから解放され、自由の栄光を受け取るという希望のもとにある。そのことを待ち望みつつ、被造物は「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」とパウロは言います(19-22節)。

私たちが真の存在になるのを、被造物が苦しみながら待ち続けている---そんなことを私たちは考えたことがあるでしょうか。うめくのは人間だけだと思っていないでしょうか。あたかもパウロには、朝に花を咲かせ、夕には枯れてしまう草花の悲しみが聞こえるかのようです。しかも被造物が苦しむのは、人間のせいだと彼は言います。こうした被造物の苦しみに対する感受性を、私たちは地球規模の環境破壊という危機に直面して、ようやく少しずつ取り戻しつつあります。

もっともパウロの視点は、もっと根源的です。汚染され傷ついた自然だけでなく、むしろきわめて美しい自然を含めて、被造界の全体が「苦しみ」の中にあると彼は見ます。この理解の背後には、〈アダムの原罪〉というユダヤ教的な世界理解があります(創世記3章)。原初の人間アダムは、神が人のために用意した楽園のあらゆる果実を---神が「食べるな」と禁じた果実を含めて---、自分の生命力を拡大させるための機会と捉えて、これらを消費したのでした。その結果、被造界は深いところで傷を受けたというのです。もちろんこれは、科学的な世界観が成立する以前の、古代の神話的な人間理解です。しかしそのアクチュアリティーは、今さら敢えて強調する必要すらないほどです。

 私たちが手にしている自由は両義的です。一方で人間は、神が被造界に定めた条件にすっぽり嵌った存在では最早ありません。神がアダムに「食べるな」という禁令を与えたときから、私たちは自由でした。禁令は、それを破る能力を備えた者に対してのみ意味があるからです。遺伝子操作の技術を手に入れたのは、その延長線上の出来事に過ぎません。他方で私たちは、未だに「神の子ら」の自由に到達していません。私たちは、自らの欲望と破壊衝動を押し止めるすべを知りません。

 ここから、私たちのせいで被造物が服しているとパウロのいう「虚無」を理解することができそうです。人がその周囲にあるものを、存在それ自体の故に尊ぶことをせず、むしろ私の力を証明するための機会として利用し、道具として消費し、あるいは挑発として征服しようとするとき、世界は、単なるモノの寄せ集めとなります。そのとき、私たち自身も単なるモノになります。他人が私を同様に扱うことは避けがたいからです。こうして人間も被造物も共に、しかし被造物は自らの意に反して、「滅びへの隷属」(21節)の下に閉じ込められるのです。被造物の「うめき」は、ここから発します。

先に述べたように、私たちは「うめき」を弱さと絶望の表現であり、無意味で空しいものと考えます。しかし感謝すべきことにパウロは、被造物の苦しみを「産みの苦しみ」(22節)として、すなわち希望に向けてのプロセスと理解します。被造物の「うめき」は約束に溢れた未来を指し示しているのです。被造物の希望は、アダムの解放に他なりません。すなわちアダムが、自分の尊厳を闘いとるための手段として被造物を利用する必要がなくなったとき、アダムは「滅びの隷属」から解放され、それと同時に被造物は、アダムと共に「栄光の自由」を手にするのです。

次にパウロは、被造物と並んで、「霊の初穂」を受け取っているキリスト者もまた、「神の子ら」とされること、すなわち「体の贖い」を待望しつつ心の中でうめき、希望のうちに忍耐していると言います(23-25節)

「初穂」とは、穀物・動物・人間などのいわゆる「初なり」を、神に属するものとしてお供えする、その供え物を意味しています。ここでは、その最初の小さな部分に、その後に続く豊かな全体が既に含まれているという意味で用いられています。すなわち「霊の初穂」を受け取っている者たちは、すでに神の霊によって生かされているのです。

 古代宗教では一般に、霊に導かれる者は、地上の苦しみを離脱し、天上の世界に向かって飛翔します。しかしパウロは何と言っているか。彼によれば、霊は、むしろ被造物の「うめき」に連帯するようキリスト者に働きかけます。こうして霊に満ちたうめきが、人間の内側に生じるのです。

 また古代において、霊に導かれて地上の苦しみを後にする者は、物質としての体をも捨て去り、霊魂の領域に入ってゆくと考えられるのが通常でした。この点でもパウロは違います。なぜなら彼は、はっきりと「体の贖い」について語っているからです。「体」(ギリシア語で「ソーマ」)とは、被造物との関係の中にある人間を指しています。「体の贖い」とは、身体に別れを告げることではなく、むしろ正反対に、身体としての人間が他の被造物との関係を取り戻すことを意味します。これこそ人が「神の子ら」とされることだと言うのです。

私たちの救いの根拠は、この希望にあります。この希望のゆえに、私たちは被造物や体を捨て去って、霊の世界へと飛翔することでなく、むしろ被造物の苦しみに連帯し、被造物と共に忍耐することを学ぶのです。

最後にパウロは、その霊が、自らうめきつつ、私たちを助けると言います。しかも私たちの弱さを取り除くことによってではなく、弱さのままに、私たちを神に執り成すことによってそうすると(26-27節)。

私たちの弱さは、パウロによれば、「どう祈るべきかを知らない」(26節)ことに端的に現れます。どう祈るべきか分からない私たちの祈りは、まさに「うめき」に他なりません。そのような祈りを、霊もまた「言葉に表せないうめき」(26節)をもって、「神の御心」(27節)に適った祈りに変えると言うのです。

 「霊」がうめくなどという発想は、打ちひしがれた者たちと共に歩んだイエス・キリストの生涯に対する記憶なしには、とうてい不可能です。新約聖書は、イエスのうめきについて、ゲッセマネの園の祈りを伝えています。ここでもイエスは、神に祈りました。「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と(マルコ14,36後半)。この祈りに向けて、霊は私たちのうめきを神の前で取り成します。

霊の働きが私たちの祈りに関係するのに対して、〈現在の火急の問題は人間の行動だ。人が直ちにその行いを根本的に改めない限り、世界は必ず滅びる〉と予言する人々がいます。世界の終末を預言するカルト宗教のグルたちだけではなく、環境問題の専門家の中にも、例えばオゾン層の破壊や、地球温暖化の進行に関するデータを示しつつ、そのように主張する人がいます。彼らが私たちに求めているのは、世界を救うために必要ないわば超人的な行動です。

 このように考える人は、パウロの発言に満足できないのではないでしょうか。パウロは、人間の行動に訴えるべきときに、祈りなどという抽象的なことについて語っている、と見えるでしょう。私も、何かがなされなければならないと確かに思います。しかし〈今こそ行動しないと滅びるぞ〉という威嚇や、処罰規定を伴う法律によって世界を救おうとすることは、「強さ」への憧れからまだ自由になっていません。それは、被造物の苦しみに真の意味で連帯する「神の子ら」の出現を待ち望む態度として、相応しいものではありません。

 祈りは抽象的なものではありません。霊が、人間の祈りを神にふさわしいものへと変えることを通して、人を新しく造りかえてゆくからです。新しい目と新しい心を与えられて初めて、人は新しい行動をなすことができます。

V

〈被造物は、人間から裏切られ、荒れ果てた楽園となった今も、人との連帯を放棄せず、うめきながら彼らが「神の子ら」となる日を待ち望んでいる。そうした被造物の苦しみに対する感受性と、被造物との関係性に生きるという希望を私たちに与えるのは、霊である。そして霊もまた自らうめきつつ、私たちの言葉にならないうめきを、高らかな祈りとして、神の御前に送り届ける〉---使徒パウロのこうした理解は、「うめき」を弱さ、絶望、無力さ、そして霊の欠如としてのみ受けとる傾向の強い私たちに、新しい眼差しを与えてくれます。

 パウロの理解する世界と人間の関係は、確かにあるべき姿からは遠く隔たってはいますが、連帯感と優しさと誠実さに溢れています。それを支えるのが神の霊です。霊とは、憎しみが支配しているところに愛情と理解を生み出し、死が支配しているところに命を呼び出し、無から存在を呼び出す、神の創造的な働きそのものです。その神の力は、「うめき」を通して働くのです。だから「うめき」は霊に満ちています。「うめき」には未来が溢れています。

私たちの社会は、「強さ」を希求するあまり、「うめき」を幾重にも封印してきたのではないかという気がします。とりわけ先の戦争がもたらした苦しみとうめきを。被害者として、大切な人たちを無残な仕方で失ったことへの「うめき」は、〈輝かしい明日を目指せ〉というスローガンのもとで、注意深く封印されました。それによって私たちの社会は、広島と長崎の被爆者に対する差別を助長したのです。また加害者として、人にあるまじき行為に手を染めたことに対する「うめき」は、被害者をモノと見なすことを通して、さまざまな自己正当化の言い訳をつけて、幾重にも封印されました。私たちの父祖たちは、そうすることで在日朝鮮・韓国人に対する差別を温存したのです。残虐行為に参加したかつての兵士たち---彼ら自身が、その多くは軍指導部のエゴイズムにより、無責任極まりない仕方で、帰るあてもない戦地へと大量に投入されたのですが---とその妻たちが、自らの心を封印しつつ育てた子供たちの心は、被造物と人間の「うめき」に鈍感な硬い心になったのではないでしょうか。現在の私たちの社会を脅かす現象の幾つか---例えば、若い親たちが幼い子供たちをネグレクトすること、あるいは子供たちが極めて残虐性の強い「いじめ」行為を互いに繰り返すこと---は、そうしたことと無関係とは思われません。悲しむ心をもたない人間に、他者の苦しみへの共感が育まれる余地はありません。

現在は、かつての戦争を直接体験した世代が、数の上でどんどん小数派になっています。そんな時代に、平和へのチャンスはまだあるのでしょうか。私自身のものでない経験から得られた貴重な洞察を、どうやって継承することができるでしょう。その一つの可能性は、私たちが神の霊の働きに促されて、人を含む被造物全体の苦しみに対する感受性と連帯をとりもどすことにあると思います。


 
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