「他者の発見」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「傍若無人」という言葉がある。「傍らに人無きがごとし」と読む。あたかも「この世界には自分の他に人はいない」かのように振る舞い、他人のことは一切眼中にない態度のことを言う。皆さんは何を連想されるだろうか。私は、電車の中で、大声で携帯電話をかけている人とか、本来なら人目に触れない所でなされる筈のお化粧に余念がない若い女性たちのことを考える。七つ道具を何と巧みに使い分けることか!

しかし、これらは我々に実害を与えているわけではない。携帯電話は、読書中は少し迷惑だと感じるが永遠に続くわけではないし、「公開のお化粧」も見なければそれで済む。そんなことよりも、「傍若無人」の典型は暴力ではないか。

家庭内暴力が増えている。DV(omestic iolence)という専門用語が生まれたほどだ。夫が妻に(逆のケースはあまり聞かないが)「殴る蹴る」の暴力を振るう。十代の子供が暴れて両親をバットで殴ったりする。特に最近気になるのは、若い両親が泣き止まない赤ん坊を放り投げたり、言うことを聞かない幼児に度を越えた折檻を加えて殺したり、という例が増えていることである。

そもそも、「人無きがごとし」の「人」とは誰のことだろうか。

自分と同じように、神から「命」を与えられた他の人間のことだ。創世記には、神が「御自分にかたどって人を創造された」 (1,27) とあるが、創造されたのは一人ではなかった。「男と女に創造された」。つまり、「神にかたどって創造された」という点では全く同じだが、固有の人格と特徴を持つ他者が同時に造られたのである。

自分と同じように奪うことの出来ない尊厳を具えた人格としての他者がいる!これが聖書の基本的な人間観だ。自分と同じように喜んだり悲しんだりする。笑ったり泣いたりする。幸せにうっとりする時もあれば、不幸に涙することもある。自分と同じように、人から殴られれば痛いと感じ、蹴られれば屈辱を感じる。その意味で同じ人間だ。しかも、その人は、独立した人格の尊厳を神から与えられている。だから、勝手にその人を「仕切ったり」、暴力で支配することは決して許されないのである。

この他者に対する畏敬の念・想像力の欠如が、暴力を生むのである。むろん、家庭内には限らない。同一民族の内部でも、国際間でもこれは繰り返され、特に「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀においては未曾有の規模で行われた。ホロコースト・南京大虐殺・原爆、等々。21世紀は、悔い改めから始まらなければならない。

小泉首相があくまで靖国神社を公式参拝すると明言していることは、この世界史の流れに逆行するものだ。昨日の「朝日新聞」によると、1986年に、後藤田官房長官談話という形でこの問題に関する「政府見解」が出ている。

「昨年の(中曽根首相の)公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を被った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立つ平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれる恐れがある。それは諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、そしてまた、戦没者の究極の願いにも副う所以ではない」。

この後藤田官房長官談話は、自民党の中にも良識ある人々がいることを示すものだが、首相はこれを全く理解していないのではないか。そのような「他者に対する鈍感さ」を克服しなければ、再び戦争への道を進むことになろう。

WCCがこの世紀の最初の十年間を「暴力を廃絶するための十年」としたのは、極めて時宜に適ったことと言わねばならないが、そのために必要なことは何か。何よりも、他者を発見することではないか。

その点で、今日のテキストは非常に重要である。

パウロは、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」(3-5節前半)と勧めた後で、「それはキリスト・イエスにも見られるものです」(5節後半)と、特に主イエスに注目する。

このイエスは、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(7-8)。

つまり、主イエスは「神の身分でありながら」、本来他者である筈の「人間の身分に」なった。このキリストを模範とせよ。いわゆる「キリスト教国」は模範にならない。英米も、その他西欧の先進諸国も、少なくとも過去において、「キリスト・イエスの心を心とせよ」というパウロの勧めを真剣に実行したとは言えない。

我々が模範にすべきは、唯ひとり、主イエスのみである。

ナチスに抵抗して処刑されたドイツの神学者ボンヘッファーは獄中で、「イエスはただ他者のために存在した」と書いた。イエスはご自身からさえ自由になり、死に至るまで「他者のために」生きた。この方に注目する時に、我々は真の神と出会うと同時に、真に他者と出会い他者を発見する、とボンヘッファーは言うのである。だから彼は、「隣人が超越的だ」とも言う。国籍や文化に違いを超えて我々が出会う一人一人の具体的な隣人。その中に我々は、イエスを通して神を見る、というのだ。他者に対する畏敬と想像力の根拠はここにあるのではないか。


 
 

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