N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版⑤

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

過去記事 ① ② ③ ④

前回の記事では、旧新約聖書のすべては文化的に順応して書かれていることを述べました。聖書の各書巻は、それが書かれた当時の文化的コンテクストに完全に埋め込まれた形で書かれています。

したがって、聖書のテクストには今日の大多数のクリスチャンが肯定しない社会制度が前提とされていることもあります。たとえば、普遍的な道徳命令の典型と思われるようなモーセの十戒の中には、次のような内容が含まれています。

あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。(出エジプト20:17)

ここで、「隣人の妻」は隣人の奴隷や家畜等と同列に記されていることに注意してください。つまり、この戒めは、妻は夫の所有物であることを前提として書かれています。これは当時の家父長的社会制度を反映しているのです。したがって当然、「隣人の夫をむさぼってはならない」とは書かれていません。当時の社会では、夫は妻の所有物ではないからです。

この他、聖書は奴隷制を当然の前提としており、それはパウロのピレモンへの手紙に見られるように、新約聖書でも同様です。しかし、今日妻を夫の所有物とみなしたり、奴隷制を肯定するクリスチャンはほとんどいないでしょう。

このように、聖書の中で古代の社会制度が前提とされているため、そこに書かれている表面上の文言を文字通りに適用することには慎重にならなければなりません。ウォルトンは律法(トーラー)について次のように言っています:

・・・この情報に照らして、トーラーは理想社会を確立したりそれを反映するように意図されたりしたものではなかったということが理解できる。それは、イスラエルの共同体がどのように振る舞うべきかに焦点を当てる際、所与の社会構造という前提の中に完全に位置づけられているのである。それによって変革されるのは、人々の共同体であって、社会の形や構造ではない。彼らは新しいステータスを与えられたのであって、新しい社会に作り変えられていったのではない。彼らに与えられたのはミッションステートメントであって、改訂されたカリキュラムではない。したがって、旧約聖書のトーラーは、民主制と君主制、見合い結婚と恋愛結婚、複婚制と単婚制、家父長制と男女平等、奴隷制と奴隷制の不在、市場経済と農業経済、等々についての神の意見を述べたものではない。律法は普遍的な道徳/倫理的システムを与えることを意図したものではなかった。それはイスラエルが聖なる神の臨在の中に生きる神の契約の民としてこのような種類の秩序を維持することによって、神の恩恵が広げられることを知る助けとして意図されたのである。それは民が神に倣うものとなったり、彼らの社会が何らかのユートピア的理念を実現したりするためではなく、彼らが生きていた世界において神によって与えられた聖なるステータスを反映することができるようにするためだったのである。(Old Testament Theology for Christians, p. 161。強調は原文)

つまりウォルトンによると、トーラーが前提としているような(たとえば家父長的な)社会構造は古代近東文化のデフォルトであって、古代イスラエル人は元々そのような社会しか知らなかったのであり、神はそのような既存の社会の中でいかにして神の臨在の元に秩序ある社会を作り上げていくかを語っているのであって、「聖書的」な社会はどうあるべきかについて具体的なモデルを示しているのではない、ということです。旧新約聖書のすべては書かれた当時の文化的コンテクストに完全に埋め込まれ、それに順応して書かれているので、表面上のテクストをそのまま現代社会に当てはめることはできない、と彼は言います。

私はウォルトンの主張は正しいと思います。ライトの本で問題になっている単婚制に関して言うなら、旧約聖書でしばしば見られた一夫多妻制が当時の文化的環境によるものだったのと同様に、新約聖書で主張されている一夫一婦制もまた、一世紀の特にユダヤ社会の文化的環境によるものと考えることは可能だと思います。そして、神は旧約聖書においても新約聖書においても、どのような結婚のあり方が「普遍的な正解」なのかを啓示しているわけではありません。神が聖書を通して教えているのは、既成の文化的コンテクスト(この場合はバイナリー的・異性愛主義的な性理解)の中でどのように秩序を保ち、神の民としてふさわしく歩むか、という、その文化的コンテクストにおける「最適解」なのです。

しかし――とある人々は疑問に思うかも知れません。もし聖書の全てが一番新しい部分でもに千年前の古代文化に順応して書かれているというのなら、そこには現代人にも語りかける普遍的なメッセージはないということなのでしょうか? そのような考え方は、聖書を現代とは無関係な単なる古代文献の一つに貶めるものであり、聖書が「神の言葉」であることを否定しているのではないでしょうか?

もちろん、私も一キリスト者として、聖書は現代にも語りかける、権威を持った「神の言葉」であると信じています。その意味で、聖書には時代を越えた普遍的なメッセージが含まれています。しかしそれは個別のテクストの表面上に直接的に書かれているというよりは、各時代に順応して書かれたテクストの表面下に流れているものとして、私たち読者が正典全体のコンテクストに照らして慎重に抽出していかなければならないものであると思います。

そしてそのようなメッセージは、マニュアルのように事細かに信仰者に神についての具体的知識や道徳的ルールを与えるものというよりは、より大局的な神の性質や計画や目的について語るものであると思います。現代の教会は、そのような聖書の全体的なメッセージに基づいて、自分たちが生きる特定の文化的コンテクストにおいて、どのように神の民として具体的に歩むべきかをクリエイティヴに考えていかなければならないのです。その際、私たちが旧約聖書や新約聖書を参照するにあたっては、それらのテクストが当時の文化的環境に埋め込まれていることをよくよく注意して扱っていく必要があります。

このような考え方は、第1回の投稿で紹介した、ライトの5幕劇モデルとその中での即興演技、というアナロジーによく馴染みます。ライト自身、第5幕に生きる私たちは先行する4幕の内容をただ模倣するのでは不適切であると言っています。したがって、私はライトのモデルは基本的に有効であると今でも考えています。ただし、私とライトが意見を異にするのは、ライトが創世記に書かれているバイナリー的・異性愛主義的な主張を普遍的な神のデザインと考えるのに対して、私はそれも文化相対的なものである、と考える点です。つまり、私見によれば、ライトのモデルは適切なものですが、彼自身の適用は不十分である、ということになります。

では、具体的にどうやって私たちは現代の文化的コンテクストにおいて、聖書のグランドナラティヴに従って生きることができるのでしょうか? 次回はこれについて考えます。

(続く)

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