死が滅ぼされるとき

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「死が滅ぼされるとき」

秋葉 正二
詩編8,4-9;

 テキストの新共同訳聖書には15章12節以下に「死者の復活」という小見出しがついています。ここからは使徒パウロが復活をどのように捉えていたかが窺えます。それは詰まる所「私たちは復活をどう捉えているのか」ということに突き当たります。私たちが自分自身の復活論をきちんと確立するためにも、パウロの復活論をしっかり理解することは有用でしょう。パウロの書簡は一種の神学論文のような理論的で緻密な印象を受けます。私などはしつこいなア、なんて感じることもしばしばですが、とりわけてコリント書とロマ書はそうした印象を受けます。きょうのテキスト15章を読んでおりますと、復活について論述するにあたってのパウロの並々ならぬ気骨を感じました。

 きょうのテキストの前段1-12節には「キリストの復活」と小見出しがありますが、1節で「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と、念を押すようにパウロはコリント教会の人たちに言葉を投げかけています。つまり、パウロにとって復活論を記した書簡を書くことは、最初から意識されていた一つの目標だったのではないかと思うのです。

 キリストの復活にしても死者の復活にしても、復活というテーマは常にパウロの意識の底にあった重大な課題であったに違いありません。ですから私たちは自分自身の復活理解に光をあてるように、しっかり彼の主張に耳を傾けたいと思います。パウロと復活と言うと、皆さんはどんなことを思い出されるでしょうか。私はアテネのアレオパゴスでの演説を思い浮かべます。

 使徒言行録の17章16節以下にその記事はあります(248頁)。それによりますと、パウロは会堂や広場で居合わせた人々と毎日論じ合っていました。その中にはエピクロス派やストア派の哲学者もいて、彼らと討論したとも書いてあります。その哲学者たちはパウロを指して、“このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか"とか、“彼は外国の神々の宣伝をする者らしい"などと言ってパウロをやや見下して見ていたようです。そのようにした理由が18節に書かれています。「パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである」。パウロは復活を論じていたのです。 それに対してアテネの人たちは、「新しい教えだ」とか「奇妙なことだ」とか言いつつ、パウロに「その意味を知りたい」と申し出たので、彼はアレオパゴスの真ん中に立ってあの有名な演説をしたというわけです。その結びに彼はこう言いました。31節、「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。ところが彼の話を聞いたある者は彼を嘲笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言いました。つまり体のいい拒否で、復活の話は受け入れてもらえなかったのです。パウロはショックだったようで、すぐにその場を立ち去っています。せっかく心を込めて懸命に話したのに無視されたのです。

 ヘレニズム文化の殿堂であるアテネのアレオパゴスで、自分の話が受け入れてもらえなかったという事実は、ファリサイの誇り高いパウロを打ちのめしたことでしょう。こうした経験が爾来、彼の心の底に「復活信仰を気概を持って述べ伝えよう」との思いを根付かせたと思います。きょうのテキストにはそうした背景があるように思われます。さてテキストのすぐ前19節でパウロは、「死者の復活」や「キリストの復活」を否定する人には、「この世の生活」だけにしか望みがなくなるので、もしそのようになるならば、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と言っています。これはいわば「死者の復活などはない」という主張に対するパウロの結論です。これを受けるように、20節以下のきょうのテキストで、パウロはキリストの復活の意味を具体的に提示していきます。さてここで一つ確認しておきますが、コリント教会の人たちはギリシャ人だということです。ギリシャの人たちの多くは、霊と肉体との一致よりは、死後霊魂は肉体から遊離するという考えを持つ、いわゆる肉体蔑視の霊魂不滅論者です。パウロはユダヤの伝統からも霊体一致の立場であり、これはキリスト教の立場でもあります。パウロは当然コリント教会内の復活否定者を想定して手紙を書いたはずです。そこでパウロはまず、キリストこそ「死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」と言い、歴史に目を転じてアダムの罪と死、キリストの救いと復活の関係について論を進めます。「眠りについた人」とは、現実には「死んだ人」という意味ですが、最後の永遠の救いを対象としている「眠り」です。休息のための眠りではなくて、いわば「再臨前の死」であり、「復活につながる死」です。

 ですからパウロにとっては死の事実は、キリスト教的希望を表す眠りとして理解されています。アダムの罪と死を彼は取り挙げていますが、死者の復活に関しては23節にあるように「順序」が重要なのだと指摘しています。

 即ち、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで世の終わりが来ます」と教え諭すのです。おそらくパウロにとって「死」はとても身近なものだったのでしょう。彼のイエスさまと出会ってからの人生は、殺されそうになったり、船で難破したり、死と隣り合わせの人生でした。そういう彼が死を定義して、人間の「最後の敵」だと言うのです。26節。敵と定義するからにはその敵との闘いが起こります。では何によって敵に勝利できるのか? 人間の「最後の敵」ですから、これは手強いのです。死と直面した方はその手強さがよく理解できます。私もかつて癌を宣告された人間ですが、その時は本当に死について考えざるを得ませんでした。私も人間の最後の敵は死だと思います。

 話が飛びますが、今私は北方謙三さんの「水滸伝」全19巻を読み終え、続編ともいうべき「楊令伝」全14巻を読み終えるところです。「三国志」も「水滸伝」も学生時代、吉川英治作品で読んで夢中になった経験があったので、北方版はどうだろうかと読み始めたのですが、これがとてつもなく面白いのです。何が興味しろいかというと、おびただしい登場人物が実に生き生きと描かれています。登場人物たちは民衆のためにという志を持って世直しをするために戦さを起こして目の前の敵と戦うのですが、物語の合間合間には登場人物同士の語らいがたくさん出てきます。その会話の多くは、彼らが次々に仲間が死んでいく現実を懸命に受けとめようとする内容なのです。なぜあんなに強い豪傑が死んだのか、どうして友の方が先に死んで自分が生き残っているのか……。そういう人間の生死に関わる内容の会話が、物語の至る所に溢れています。私は北方謙三というハードボイルド作家の小説を読みながら、全編に流れている生と死というテーマのことをずっと考え続けてきました。自分はキリスト者としてもっともっと生死の問題を深めて探求しなければならないと思ったのです。

 ですからパウロの復活論にこうして再び巡り合ったことは、大きな意味がありました。きょうのテキストは、言わば死をテーマにした歴史神学、終末論ですが、「支配」と「服従」という言葉がとても目につきます。ここでいう支配と服従の関係は、もちろん人間関係におけるそれではありません。言うなれば、神さまの勝利と人間の最終の敵である死を服従させるという意味で、復活を通して起り得ることをパウロは述べています。中でも28節は一番彼が言いたかった大切な部分ではないでしょうか。「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」。これは最後の敵が滅ぼされて、神の支配が実現するという希望を見据えたクライマックスのみ言葉だと思うのです。すべてがイエス・キリストに服従するとき、イエスご自身も神さまに従い、神さまが万物の中に内在されて支配される……。そういう宣言です。

 パウロは死についてもイエスさまと神さまとの関係をきちんと確かめていることが分かります。私たちは別に癌にならなくても死の問題を深めることができます。私は日本の僧では良寛と一休が好きなのですが、一休さんは「門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と詠み、良寛さんは「裏を見せ、表を見せて散る紅葉」と詠みました。独特の無常観が漂っていますが、やっぱり二人とも宗教的な達人だと思います。それは人間の生を、死に向かう存在として深く捉えているからです。自分の生をそれこそ死から逆算して確かめてみる作業が人間には必要だと思います。とりわけ信仰を与えられた人間はそうではないでしょうか。死について問われた時、生もよく分からないのに死についてなど答えられるか、と中国の哲人のように開き直らないで、パウロのように、復活信仰こそが福音の中核をなしているのだということを、私たちキリスト者は証ししなければならないのではないでしょうか。

 パウロがギリシャの哲学者に馬鹿にされたように、私たちも復活を証しする時に馬鹿にされるのかもしれません。しかしイエスさまは、「最後の敵を滅ぼした」と私たちに希望をくださっているのです。私はこの希望に生きようと思っています。人間は死んだら終わり、すべてが無になり、滅びてなくなるのでしょうか? 私は愛するたくさんの人たちの命が、そして自分の命が死んだらすべて無になる、とは思いたくもありません。創造主である主なる神さまは、私たち人間を決して無に追いやることはされないと信じています。それは聖書において神さまと巡り合った多くの人たちの生涯を見ればわかります。聖書は絶望の書ではありません。聖書はイエス・キリストを通して私たちに希望を与えてくれる書です。そのことを使徒パウロも自らの生涯を賭けて証ししてくれています。この自らの生死に関わる大切な使信をパウロの言葉からしっかり受け取ろうと思います。祈りましょう。


 
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