今日は教会の暦では一年の最後の日曜日、「終末主日」である。この日を「感謝祭」(Thanksgiving Day.11月第4木曜日)と関連させて「収穫感謝祭」として祝う教会もあるが、我々は「終末」に焦点を合わせて考えたい。「収穫感謝」の気持ちは、説教の後の讃美歌386番で表すことにする。
この「終末主日」に選ばれている説教テキストは、イザヤ書65,17-25である。この個所は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(17)という、喜びに満ちた言葉で始まり、希望に溢れた言葉が最後まで続く。教会暦の最終主日のテキストとしてこの希望の個所が選ばれたのは、大変適切ではないか。
先週の土曜日に広島に向かう飛行機の中で新聞を読んでいたら、瀬戸内寂聴さんとのインタビュー記事が出ていた。彼女はその中で、恐らく我々の多くが感じていることを歯切れの良い口調で代弁していた。政治・経済・教育・環境問題、どれを取り上げても、「日本はすっかり駄目になってしまった」というのである。
だが、このような厳しい言葉を語った後で、彼女は希望を語る。最近、色々な分野の人と会って話を聞く機会があったが、若い人たちの中には、自分というものをしっかりと持って自分のなすべき仕事を見つけ、目立たないけれども社会の片隅で黙々とそれを続けている人が少なくない。その人たちと語り合っていると、ここに希望がある、日本の将来があると感じる、日本も捨てたものではない。そこで瀬戸内さんは「考えを変えて、希望を持つことにした」と言う。これは、確かに喜ばしい転換である。
しかし、「日本も捨てたものではない」と希望を抱かせてくれる誠実な若人も人間なら、日本を駄目にしたのも同じ人間である。彼らだって、初めは高い理想を持ち、その実現のために努力したに違いない。私自身も含めて、人間というものは次第に衰えたり変わったりするものだ。そうでない人がいるだろうか。
だから、そのような人間に望みを託すことは出来ない。
我々が望みを託することが出来るのは、人間ではない。人間に内在する可能性ではない。この点で、聖書は徹底的である。甘くない。聖書が「すべての人間は罪人だ」というのは、そういう意味である。
紀元前6世紀の預言者・第三イザヤは、「わたしたちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり、わたしたちの悪は風のようにわたしたちを運び去った」(64,5)と言う。人間についての鋭い洞察である。このような人間に希望を託することが出来ようか。
彼が希望を託したのは、天地万物を造り、それを支配する神であった。この世界と人間を高く超越し、人間の世界に何が起ころうともそれによって左右されず、上から・外からこの汚れた世界に入ってきてそれを新しくする全能の神!
その神の言葉を、預言者は代弁する。
「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はいない」(17)!
「初めからのこと」とは、「過去の罪」であろう。初めは良く・美しく造られた人間が堕落したこと。そのために人間の間に憎しみや殺し合いが始まり、それは現在まで止むことなく繰り返されてきたこと。そのことによって、人間と共に造られた自然も汚され破壊されたこと。この忌まわしい過去。
だが、そのような過去を思い起こす者もいなくなるほどに、すべては新しくされる。「見よ、全能の神が新しい天と新しい地を創造する」。
さて私は、今日の礼拝のために、イザヤ書65章と並べてヨハネ黙示録21章も読んだ。この二つの個所の関連について述べたい。
黙示録の記者は「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」(21,1)と言うが、それはイザヤが言うことと全く同じだ。黙示録はまた、人類の忌まわしい「過去が克服される」ことについても「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21,3) と述べているが、それはイザヤが「初めからのことを思い起こす者はいない」と言うのと同じ意味である。イザヤはまた、黙示録と非常に良く似た表現でこうも言う。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」(65,19)。
つまり、旧約と新約とは太い流れで結ばれていて、旧約聖書の「新天新地」の思想は、基本的にはそのままの形で、新約聖書の中にも見出されるということだ。「新天新地」の希望は、何百年もの間、ユダヤ民族の記憶として残っていたのである。コンピュータのメモリは消えることがあるが、この「民族の記憶」は消えない。このような消えない記憶を持つ民族は幸せである。これが全人類の記憶とならねばならない。
黙示録では、神はこう宣言する。「見よ、わたしは万物を新しくする」(21,5)。
我々が望みを託することが出来るのは、いかなる意味でも人間に内在する可能性ではなく、この神である。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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