I
「求めなさい。そうすれば、与えられる」というイエスの言葉は、キリスト教徒でない人々にもよく知られています。その場合この言葉は、〈夢を諦めてはいけない〉という意味に理解されることが多いのではないでしょうか。もっとも夢の内容が何であるかは、とりあえず不問に付されます。イエスも、何を求めるのかについて明言しません。
いったい私たちは、何を求めているのでしょう。胸に手を当てて考えれば、私たちの求めるものが、私や私の属する世界にとって、必ずしも常によいものである訳ではないことに気づかされます。
環境問題を見れば、このことは直ちに明らかです。東京都心の夏の熱気には耐えがたいものがあります。最近「ヒートアイランド(熱の島)」という言葉を耳にします。棒グラフによる気温標示を地形表示と組み合わせると、都心の気温が周辺地域よりも著しく高いため、ちょうど海の中にぽっかりと浮かぶ島のように見えるのです。そして、この都市部における異常な気温上昇の原因は、私たちが快適さを追求してきたこと――例えばアスファルトで舗装した道路を走る車から排気ガスを放出し、森林を切り開いて家々を連ね、冷房の効いた部屋に住んで、冷蔵庫から冷えたビールを取り出すといったこと――にあります。快適に暮らしたいという私たちの「夢」は、これで本当に叶ったのでしょうか。
あるいは約半世紀前、私たちの国は、欧米列強による植民地支配から東アジアを解放するという「夢」を掲げて、近隣の国々に軍隊を派遣し、たくさんの領土を獲得しました。こうして莫大な地下資源と食料補給、そして労働力が手に入ったのです。「夢」は叶うかに思われました。しかしこの企ては、実際には、隣国の人々と日本人の両方に、大きな悲しみと破壊をもたらしました。どこが間違っていたのでしょうか。
戦争によらずとも、私たちはしばしば何かを新しく手に入れることで満足を得たいと思います。その典型が「買い物」です。資本主義が高度に発達した私たちの社会では、誕生からお葬式まで、生活のあらゆる領域がサービスとコマーシャルの対象になっています。学歴や健康、美しさなどは、お金を払ってでも努力して手に入れるべきものであるかのように扱われます。留学時代、デパートの入り口に、「我買う、ゆえに我あり Ich kaufe, also bin ich」という垂れ幕がかかっていたのを思い出します。哲学者デカルトの言葉をもじったこのキャッチコピーは、〈私は買い物をすることで、自分の存在を確かめる〉というほどの意味です。こうまで言われると、借金をしてでも買い物をしたくなるのが人情というものではないでしょうか。
いったい私たちは、何を求めているのでしょう。また「求める」とはどういうことなのでしょうか。イエスの言葉に耳を傾けながら、一緒に考えてみましょう。
Ⅱ
イエスは、どのような状況で、この言葉を語ったのでしょうか。残念ながら、正確なことは分かりません。しかし彼がどのような生き方をしたかを、私たちは知っています。すなわちイエスは、故郷と財産、そして身を守る手段をすべて放棄して、村々を行き巡り、病人を癒しながら、救いをもたらす神の力の近さを宣べ伝えたのでした。イエスは、彼の弟子たちの何人かを、このメッセージを伝えるために派遣しました。そしてそのとき、皮袋や財布を持たないで行け、そして受け入れてもらえたならば、その家で出されたものを食べよと命じています(マタイ10,7以下を参照)。
私たちに分かりやすい表現を使えば、イエスは托鉢僧のような生き方をし、弟子たちの一部にも、そのように生きるよう求めたのです。ある学者は、「求めなさい/探しなさい/門をたたきなさい」という教えは、〈乞食の知恵〉に通じると言いました。生前のイエスに特徴的な〈放浪の生〉という文脈から見るとき、イエスから派遣されて故郷を後にする弟子たちは、師匠の言葉が非常によく分かったのではないでしょうか。すなわちこの言葉は、イエスに従い、これまでの自分の生活から出て、イエスに倣って人々のもとに赴くという生き方を、広い意味の背景として持っているように思います。
イエスと弟子たちのこうした生き方は、私たちが何かを「求める」場合とは、少しずつ違います。彼らは所有を放棄して、まったくの空手で人々のところに行くのですから、「求める」ことは、「所有」への欲望とは異なります。また彼らが「探す」のは、神に対する人々の信頼と同意そのものですから、私個人の夢の追求とはズレがあります。そして「門をたたく」ことは、見知らぬ人の善意と良心だけに訴えかけることですから、他人の好意を誘っておいて利用したり、あるいは自分の才覚一つを頼りに立身出世を図るような生き方とは、根本的に異なります。
一言で言えば、私たちが「求め/探し/門をたたく」ときは、しばしば自分中心に私個人の「夢」を中心に考えがちですが、イエスの「夢」は、むしろ新しく与えられる他者との関係の中にこそ見出されるものでした。
Ⅲ
「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉は、確かに有名です。しかし他方で、〈人生にタダほど高いものはない。私に何かを与えることができるのは、実は私だけだ〉という考え方もあります。その背後には、求めても与えられなかった経験、探しても見つからなかった経験、そして門をたたいても開かれなかった経験があるのかも知れません。ついに叶えられなかった願い、永久に失われてしまった関係、そして、いろいろな事情があって私には開かれなった道――人生には、そうした辛い経験がつきものです。ではイエスは、ただナイーブでお目出度いだけの男だったのでしょうか。彼の楽天主義は、人生の厳しい現実を前にするとき、単なる幻想に過ぎないのでしょうか。〈私に何かを与えることができるのは私だけだ〉という考え方は、本当に人生の真実を言い当てているでしょうか。
そうだと信じるとき、私たちは「求める」こと、つまり「願う」ことに代えて、むしろ「要求」します。是が非でも手に入れたいからです。失われたものを「探す」ことに代えて、別の代用品を購入することで欲求不満を解消します。喪失感を自力で補う他にすべがないからです。さらには「門をたたく」ことを屈辱と考えて、むしろ手練手管を用いて「他人に取り入ろう」、つまりはさっさと「押し入ろう」とします。他者の善意など当てにならないと思っているからです。求めないで要求し、探さないで代用品を調達し、また人々の善意に期待しないで、むしろ人の欲望を操作するという生き方は、しかし、とてもせっかちで身勝手です。そればかりか、根本的に孤独な生き方です。このような生き方に慣れてしまうと、どんなにたくさんのものを手に入れても、どんなに大勢の人と知り合いになっても、私たちはすぐに退屈してしまいます。手にするものは、その瞬間にはピカピカ輝くかもしれませんが、すぐに色褪せてしまうからです。
これが本当に生きて甲斐のある生き方であるとは、どうしても思えません。これに対して、「求めなさい/探しなさい/門をたたきなさい」というイエスの教えは、私たちが深いところで、自分では作り出せない、しかし生きていくために必要な土台を、私自身の能力では調達できない未来を、また他者との幸福で自由な出会いを求めていることを思い起こさせます。イエスの言葉は、単にナイーブなのではありません。むしろ、人が真の自分に到達するためには、自分の外に出て行かなければならないことを教えています。
「求めること/探すこと/門をたたくこと」は、私たちの生に備わった本来の方向性です。イエスが弟子たちを人々に向けて派遣するとき、イエスは、弟子たちがこの方向性に具体的に対応するよう求めているのです。
Ⅳ
イエスの教えは、「与えられる」ものがあるという経験に、「見つかる」という希望に、そして「門が開かれる」という信頼に基づいています。そのことを明らかにするために、彼は、日常経験を指し示します。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(9-10節)。
もしかするとこの言葉は、イエスの幸福な父親体験を反映しているのかも知れません。『マタイによる福音書』に保存されたイエスの誕生物語によれば(マタイ1,18以下を参照)、イエスの父ヨセフは、彼が自分の子でないことをよく知っています。許嫁であったころのマリアが、自分とは無関係な妊娠によって産んだ息子がイエスなのですから。そのように生まれたイエスが、この世の父は、子がパンや魚を求めれば与えてやるではないか、と言っているのです。
さらに彼は言います、「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」(11節前半)。どきっとさせる言葉です。私たちは、自分たちが必ずしも善人ではないことを確かに知っています。それだけにこの言葉は、親から食べ物を与えられない子供たち、また親から捨てられて路上で暮らす子供たちを抱えている私たちの社会に対する痛烈な告発でもあります。本来あってはならない現状を前にして私たちが感じる悲しさは、確かに人が生きるためには「良い物」を必要としていること、食べるためのパンや魚、あるいは温かい言葉なしには死んでしまうことを、もう一度思い起こさせます。
地上の父についての言葉に続けて、イエスは、「天の父」について語ります、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(11節後半)。ここで「天の父」は、純粋に与える者です。私たちは求める存在であるという認識に、神は与える存在であるという認識が対応しています。
旧約聖書以来、預言者たちは、繰り返し「神を求めよ」と教えました(例えばアモス5,4-15を参照)。イエスも、おそらく否定しないでしょう。しかし彼は、私たちに「神を求めよ」と命じることに代えて、ただ「求めなさい」と言い、「神が与えてくださるだろうから」とその理由を述べます。これは何を意味するでしょうか。次のように考えることができるのではないでしょうか。すなわち、私たちがいかに倒錯した仕方で自己中心的に何かを求めようとも、求めるという姿勢そのものが、与え手である神を遠く指し示している。そのことに気付いたとき、人は、神に対応した人間として「求め、探し、門をたたく」ことを始めるのでしょう。他者との関係を求め、それを探し、他者の良心を呼び覚ましつつ生きること、神が人に求めているのは、そのような生き方です。
V
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(12節)――〈黄金律〉と呼ばれる、この有名な言葉も、以上のような考察に結びつけて理解できると思います。
もちろんこの言葉は、文脈から切り離して、それ自体で理解することが可能です。〈自分が他人からしてもらいたいことを他人にもすることが倫理のすべてなのだ〉という主張は、別の宗教を信じている人々からも同意を期待できると思います。
しかしここまでイエスの言葉を考えてきた私たちは、もう一歩踏み込んでみることができるでしょう。私たちが「人にしてもらいたいと思うこと」とは何でしょうか。それは(1)まず他者から「求められる」こと、つまり人生を分かち合うに値する人間として愛されることです。(2)次には他者から「探される」こと、つまり無限に大切な存在として、常に憶えていてもらえることです。(3)そして最後に他者から心の扉を「たたかれる」こと、つまり良心と自発性に向けて、繰り返し問いかけられることではないでしょうか。私たちが望んでいるのは、一言で言えば、関係性の中に生きる人間としての尊厳そのものです。
ならば、そのことを他者に向かってもなすとは、他者を求め、探し、門をたたくことに他ならないはずです。すなわち(1)他者に対して要求することに代えて、他者の人格を「求め」、(2)他者を欲求不満の吐け口にすることに代えて、他者の存在を「探し」、(3)そして他者の欲望を誘うことに代えて、善意と良心に訴えつつ、その心の「門をたたく」ことです。
8月は、戦争の記憶と分かち難く結びついています。かつての戦争における決定的な間違いがどこにあったのかは、今までイエスの言葉に耳を傾けてきた私たちには明らかです。私たちの父祖たちは、他者に要求し、自分たちの欲望のために利用し、他人の心に土足で踏み込んだのでした。これは何も昔の話ではありません。そのことをはっきり見抜いて、私たちが幾度となく人から助けられて人生の危機を乗り越えてきたことを思い起こしつつ、イエスに従ってゆくことが私たちの証言であり、また世界に対する奉仕でもあると思います。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.