「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」(1)とある。十字架の上で死ぬ日が迫っている。この時に、彼は「世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。印象的な文章だが、翻訳については不満がある。「この上なく」というのは意訳で、焦点が少しぼけているように思われる。昔は「極みまで」と訳されていて、その方が良かった。
元々ギリシャ語では「テロス」という言葉がここで使われていて、これは「ある状態の極限、あるいはある行動の限界」という質的な意味と、「最後」という時間的な意味と、二重の意味を持つ言葉と言われている。
イエスはご自分の死が近いことを悟って、時間的な意味で「最後まで愛し抜かれた」。だが同時に、質的な意味でも「ぎりぎりの気持ちで極限まで愛された」のである。この「せっぱ詰まった」気持ちを表すためには、「極みまで」、あるいは「最後まで」の方が良いのではないか。
人は、自分の命の終わりが近いことを悟ると、優しい気持ちになるものらしい。姉が死ぬ前、病床を訪ねると、実に優しい目で私をじっと見た。実は、「優しい目」というだけのことではなかろうと感じていたのだが、最近、鈴木秀子『死にゆく者からの言葉』(1993年)という本を読み直した時に、あの「優しい目」の意味が分かったような気がした。この人はカトリックのシスターで、瀕死の病人の臨終に立ち会うという経験を多く持っているが、その本の中にこう記している。
「死に行く人たちは…残された日々に、自分の人生を振り返り自分の人生の意味を見つけ、あるいは未解決のものを解決し、不和を和解に、より豊かな愛の結びつきにすることを望んでいるのだという確信を持つようになりました」(18頁)。
イエスが死ぬ前に、「世にある弟子たちを愛して、極みまで愛し抜かれた」というのも、そういう意味ではないだろうか。彼はこの時、瀕死の病床に就いていたわけではないが、死ぬべき時が迫っていることを明確に自覚していた。残された時間は、もう多くない。だから彼は、自分の人生の意味を再確認し、愛の結びつきを確かめようとした。そして彼はその愛を、「弟子たちの足を洗う」という形で現されたのである。
当時のユダヤでは、履物は簡単な皮のサンダルである。それも、あればいい方で、靴もスニーカーも靴下もなかった。マルコ福音書によれば、イエスは弟子を派遣する時、「ただ履物は履くように」(6,9)と注意している。しかし、マタイやルカは、「財布も袋も履物も持って行くな」(ルカ10,4;マタイ10,10)と命じた、と記している。恐らく、「履いたり履かなかったり」というのが実態だったのだろう。
その上に、無論、自転車や車もなかったから、歩くほかはない。その道も、普通は舗装などされていない。羊やロバがそこら中に排泄物を落としていく。そこを、埃にまみれて歩くのである。だから、足は体の中で一番汚れた部分だ。
イエスは、この一番汚れている部分を洗ったのである。その場面を、ヨハネは目に見えるように生き生きと描き出す。「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(4-5)。
愛は奇麗事ではない。母親は、汚れたおむつを物ともせずに替える。マザー・テレサは、路上で死にかけている人々を抱き上げたという。真に愛する時、人は自分の手を汚すことを躊躇わない。
そして主イエスは、生涯、そのように生きられた。重い皮膚病のために膿と血で汚れた人に、彼は平気で触った。これは、表面的な行動や態度の問題ではない。根本的な人生の姿勢の問題だ。彼は、「汚れた存在」とか「罪人」というレッテルを貼られて社会の爪はじきになっていた人々の中に入って行き、彼らの仲間となって共に生きた。そのために、彼もまたこの世から捨てられたのである。弟子たちのどろどろに汚れた足を洗うという行動は、このような彼の全生涯を象徴するものだ。
今日の説教の最後に、もう一つの点を指摘しておきたい。
当時、汚れた足を洗うなどというのは奴隷の仕事であった、ということである。ここで直ぐ、イエスのあの言葉を思い起こされる人も多いであろう。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10,42-45)。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た!
このイエスの生き方、彼の生涯の意味。それが、死を間近かに控えた今、我々の心に明らかにされているのである。今日の個所から、我々はこのことを学ぶ。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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