良く知られた「一粒の麦」の話である。言うまでもなく、この「一粒の麦」とは、主イエスご自身のことだ。彼が死ぬことによって、多くの命を生み出すもとになったという意味である。その後の人類の歴史に照らしてこれが真実であることを、我々は知っている。
しかし、私は今日、我々の心の中にある一つの恐れに注目する所から出発したい。
我々は、「一粒の麦」になることができるだろうか、「自分の命を投げ出して他者を救うなどということは自分にはできそうもない」という恐れを持っている。この恐れに縛られて、我々はいつの間にか声高に「難しさ」を言いたて、それを言うことが人間の誠実さの証しであるかのように、「そんなことは不可能だ」と論じるようになる。これは、良い傾向ではない。
先週の日曜日の夜、NHKで「憎しみを超えられるか――コソボ・小学校の半年」という番組を見た。コソボ自治州の、ある町の話である。そこではセルビア系住民とアルバニア系住民とが昨年までは平和に共存していたのだが、民族紛争が再燃してとても一緒には暮らしていけなくなったために、両民族は川を挟んで別れ別れに住むようになった。子供たちが一緒に通っていた小学校も、別々になってしまった。しかし、セルビア系居住区の中に残って孤立したアルバニア系住民も数家族いて、その子供たちは学校に通うのにも危険を感じる状態である。
だが、アルバニア人小学校の校長が、憎しみを乗り越えて再び一緒に学べるように、困難な取り組みを始める。子供たちの中には、親を殺されたり家を焼かれたりした経験から、「セルビア人は絶対に許せない」と思い込んでいる子供たちも相当数いるし、教師たちの多くも、校長の方針に批判的だ。
ところが、クリスマスの朝、思いもかけなかったことが起こる。13歳のアルバニア人少女の家に、前はとても仲良しだったセルビア人の友達が、近所の人目を気にしながらやって来てカードを手渡したのである。「とても嬉しいわ」とその子は喜ぶ。新年になって、「今度は自分が、その友達の家に新年カードを届ける」と言い出す。緊張で全身を固くしながら妹と二人で出かける。幸い、セルビア系の子供たちの嫌がらせを受けることもなく、無事にカードを手渡し抱き合って挨拶する。「いつかまた、一緒に遊べる日がきっと来るよね」、と二人で言い交わす。深い感動に包まれた。
「どうしようもない」と皆が半ば諦めている中で、目立たないけれども一つの動きが始まっている。再び一つの学校で一緒に学べるようにしたいという校長先生の取り組み。そして、二人の女の子の間に芽生えた小さな喜びと希望。
さて、「一粒の麦」の話は、自然の中で起こっているごく普通の営みを例にとって語られた。それは、何も特別なことではない。当たり前のことである。この点に注意したい。そう言えば、イエスはよく自然界の普通の現象を題材にして話された。ヨハネでは「羊の話」がしばしば登場するし、マタイには有名な「空の鳥・・野の花」の話がある。ここには何か重要な意味が隠されているのではないか。
この説教の最初に述べたように、我々には、先ず「難しさ」に目を留める傾向がある。「一粒の麦」がイエスの十字架と関連しているということが頭にあるので、つい、「あんな風に自分の命を捨てるということは、私には不可能だ」と考えて、腰が引けてしまう。いつの間にか声高に「難しさ」を言いたて、「そんなことは不可能だ」と論じるようになる。そして事実上、自分たちをこの教えが適用されない安全地帯に置く。
だが、そんな風に考えなくてもよいのだ。新大久保駅での関根史郎さんと李秀賢さんのように、「自分の命を捨てる」場面に出くわすことはあるかもしれない。だが、いつでもそうだというわけではない。多くはもっと「小さなこと」から始まるのである。小さな意地、些細な行きがかり、いささかの恐れ。それを捨てる。それらが地に落ちて死ぬ。それがそんなに難しいことだろうか? コソボの少女たちの実例は、この点で我々に反省を迫るものだ。
一粒の麦が大地に落ちて、そこから新しい芽が出てくるように、それ程自然に、一つのことが彼女たちの心の中に起こった。小さな意地、些細な行きがかり、いささかの恐れ…そういったものが「地に落ちて死んだ」。そしてそこから、友情・喜び・希望といった新しい芽が生えてきた。大袈裟なことではない。「清水の舞台から飛び降りる」ような決死の覚悟もそこにはない。ごく自然にこのプロセスは起こった。
「一粒の麦」の話は、イエスの尊い犠牲のことを主題にしたものだが、我々の場合は、「自分の命を捨てる」というギリギリの所まで行く前に、なすべきことがもっと多くある。我々が後生大事に抱え込んでいる自分の誇りや意地。場合によっては憎しみまでも、大切にして手放そうとしない。それを捨てることから始めなければならない。そしてそれは、そんなに難しいことではない。神は我々の中にも、自然界に与えられた生命のプロセスと同じものをお備えになったに違いないのだから。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25)というイエスの言葉も、そのような幅をもって理解されるべきであろう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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