ともに生きるとは、私たちが教会の中でだけ追い求めていけばよい課題なのでしょうか。具体的に言えば、この代々木上原教会の中でだけ、追い求めていくべき課題なのでしょうか。それとも支区や教区の交わり、同じキリスト教のさまざまな教派の中で追求すべき課題なのでしょうか。あるいは、この世においても、私たちが生きているこの地球上においても、追い求めていくべき課題なのでしょうか。
パウロは、さきほどお読みしました聖書の箇所のすぐあとのローマの信徒への手紙の12章14節で、「迫害する者を祝福しなさい。祝福して、呪ってはならい」と述べています。迫害する者のために祝福を祈るとは、「相手とともに歩むことができない現実がありつつも、ともに神の祝福にあずかり、ともに歩むことができるようにと祈り求めること」です。
あるいはその先の18節で、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と述べています。これは、「相手と平和に歩むことができない、相手の側から攻撃が仕掛けられるかもしれない、しかしせめてあなたがたの側からは、すべての人と平和に暮らすよう努力しなさい‥‥」ということです。これらの箇所から、パウロが、この世に向かっても、ともに生きる生き方を追い求めていくようにと述べていることがわかります。
しかしパウロは手紙の中では、圧倒的に、「教会の中で、教会に属する者がともに生きる」とはどういうことかを問題にしています。それは手紙の多くが誕生したばかりの、よちよち歩きの教会宛に書かれたものであることを思いおこすと、やむを得ないことだと思います。またすでにキリスト者に対する迫害が始まっていました。そういう状況の中で、キリスト者がお互いに愛を持って支え合いつつ、いかに歩むかが、大きな問題でした。
当時は、迫害がせまりつつある中で、いかにその迫害に堪え、いかに支え合い、いかにその危機的な状況を乗り切るかが大きな課題でした。しかし私たちは、現在、もっと別の危機に直面しています。それは核戦争が起これば、キリスト教も、他の宗教も、すべてのものが滅んでしまうという危機です。環境が破壊され地球上にもはや人間が住めなくなれば、キリスト者も、そうでない者も、ともに滅んでしまうという危機です。ある人々がいくら正当な理由をつけて戦争を始めても、その結果、どちらかが勝利し、どちらかが敗北しても、戦争によって環境が破壊され、社会が混乱し、経済システムが崩壊し、とうとい人間のいのちまでが奪われ、すべての人間がともに不利益をこうむるという危機です。
私たちは、文化や宗教が異なる人たちが現実に存在するこの地球上で、人類がどのようにともに生きるのかという課題の前に立たされています。この課題に立ち向かうために、私たちは、「ともに生きる」という生き方を、教会の交わりの中でだけ実現させるのではなく、教会の外にいる人たちとも実現させる必要があります。
さてさきほどお読みしましたローマの信徒への手紙12章の3節以下で、パウロは、明らかに、「教会の中でキリスト者がともに生きる」ということを問題にしています。コリントの信徒への第1の手紙の12章にも同じような内容の箇所がありますが、ローマの信徒への手紙の12章6節には、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」とあります。パウロは、4節以下で、こう述べています。「私たちのひとつの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれてひとつの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです‥‥」。そして具体的に、預言の賜物を持つ人、奉仕賜物を持つ人、教える人、勧める人、施しする人、指導する人、事前を行う人‥‥がいるのだと指摘しています。教会の中で、さまざまな賜物を持つ人が、それを生かして、ひとつの教会としての交わりをつくりだす‥‥このことの大切さをパウロは指摘しています。
もちろん「さまざまな賜物を持つ」といっても、それは神から与えられたものです。その与えられたものを生かすことが大切なことです。また「生かす」といっても、私たちの力で生かす努力をするのではなく、神の力によって、一人ひとりにあたえられている賜物が生かされるよう求めていく、ともに生きることが可能になるように願い求めていくことが大切なことです。
しかし私たちは、教会の中でだけ、賜物を生かし、ともに生きる努力をするのではなく、教会の外にいる人たちとも、ともに生きる努力をする必要があります。教会の外にもさまざまな賜物を神から与えられ、それを生かそうとしている人たちがいることを知り、それらの人たちとともに生きる努力をすること、それが地球規模の危機を前にして私たちが歩むべき道ではないでしょうか。
神は、この地球上のすべての人間にいのちを与え、すべての者を守り、導こうとしておられます。神は、一人ひとりに賜物を与えてくださっています。でも多くの人たちはそのことに気づかず、自分を生かすことができず、また周囲にいるさまざまな人たちとともに生きることができなくなっています。ともに生きることは、まさにすべての人間の共通の課題です。
今日の午後、私がこの教会の牧師になるための就任式が行われますが、私は、私に神から与えられている賜物があるとしたら、それを、みなさんとともに生きるために用いることができたら‥‥と思います。しかし神に賜物を与えられているのは、私ひとりではありません。みなさん一人ひとりが神から賜物を与えられています。私は、「牧師のつとめは、みなさんに与えられている賜物がそれぞれ生かされるように配慮すること、一人ひとりが神に力を与えられ、導かれて生きる者となるように配慮すること」だと考えています。
そして今日、私たちにとって大切なことは、それぞれの賜物を教会の中でだけ生かそうと努力するのではなく、まさにこの世で生かすことだと思います。だから私は、「牧師のつとめは、教会の中だけではなく、教会の外にいる人たちとも、それぞれ神から賜物を与えられていることを認め合い、それをともに生かすことができるよう配慮すること」だと考えています。
さてそうは言いましても、この夏から秋にかけて、私は、実際に自分に何ができるのだろうか、東京に行ってうまくいくのだろうか‥‥と不安になることがありました。そんな中で、9月中旬にドイツに行き、たままた出席した教会の礼拝の中で読まれた聖書の箇所に、力づけられる思いがしました。その聖書の箇所を、10月初めの礼拝で、みなさんに紹介しました。そこには、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮の霊を私たちに与えてくださった」という言葉がありました。みなさんの側でも、牧師が交代することに対して不安を覚えることもあったとお聞きしましたが、たとえ不安があっても、神に与えられる力の霊、愛の霊、思慮の霊によって、私たちは不安を乗り越え、ともに生きる交わりを形づくることができるのだと思います。私は、この箇所にふれながら、神から与えられる力と愛と思慮に生きるときに、何も不安を抱く必要なないのだと理解できるようになりました。
そしてドイツでの最後の夜、もひとつ、私自身がはっとさせられる体験をしました。
いっしょにドイツに行った人たちの中に、聖歌隊に属している人、教会で奏楽を担当しているオルガニスト、ピアノの教師、またピアノを学んでいる中学生がいました。その人たちと、ベルリンでの最後の夜にコンサートに行く計画を立てました。9月というと、まだ本格的なコンサートのシーズンではなく、やっとのことで見つけたのが、ダニエル・バレンボイムが指揮をし、フランスのブーレーズという作曲家の作品を演奏するというコンサートでした。
ダニエル・バレンボイムは、1942年にアルゼンチンで生まれたユダヤ人のピアニストであり、指揮者でもあります。現在の国籍はイスラエルにあります。2001年には、エルサレムでワグナーの作品を演奏し、物議をかもし出したことでも知られています。かつてユダヤ人の殲滅を主張していたヒトラーがワグナーの作品を政治的に利用したということで、バレンボイムに対しファシストであるとの非難が起こりました。しかしバレンボイムは、たとえワグナーの作品がかつて政治的に利用されたとしても、その音楽じたいは、決して政治的なものではない、音楽というものはそもそも政治的に利用されるようなものではないと力強く主張し、多くの反対を押し切って演奏しました。このことからもわかりますように、バレンボイムは、音楽を愛し、音楽の可能性を信じ、音楽を通して今日の分裂した世界に対話と和解をもたらそうとしている人物の一人です。
私は、いずれまた詳しく述べる機会もあるかもしれませんが、アラブ人でありながらキリスト者としてアメリカで活動し、平和を訴えたエドワード・サイードの著作から多くのことを学びました。その中に、サイードとバレンボイムの対談集があり、バレンボイムが語ったある言葉に感銘を受けました。それはこういう内容です。「西洋人がアラブの音楽を聴く、アラブ人が西洋の音楽を聴く、これだけではモノローグにすぎない。つまりそれぞれが、ひとりごとを語っているだけで、対話にはならない。対話というのは、両者がそれぞれ相手の音楽を受け入れ、そこから新しい音楽を生み出す創造的な作業である‥‥」。言葉どおりではありませんが、そういう内容のことを語っています。
ベルリンで聞いたコンサートは、そのようなバレンボイムの姿勢をはっきりと打ち出したものでした。前半の2曲目の演奏が始まる前に、バレンボイムは聴衆に向かって語りかけました。これじたい異例のことです。演奏した曲は、1925年生れのブーレーズというフランス人作曲家がつくった『デリーブ2番』という曲で、11の楽器のためのアンサンブルでした。バレンボイムは、「たいていの作品は、テーマと言われる小さな部分が最初にあって、それを発展させたり、繰り返したりしながら、大きな部分へとまとめられていくのであり、そういう作品が全体としてまとまるのは当然である」と語りました。しかしブーレーズのその作品は、およそアンサンブルとしては用いられることのない11の楽器を使い、それぞれがそれぞれの楽器の特徴を生かした音を出すところから始まり、それぞれ主張し合ったり、ぶつかり合ったりして、やがて音と音とを重ね合うことができるようになっていきます。『デリーブ』という曲は、その過程を描こうとするものだそうです。そもそも11の楽器を使うということ自体に意味があるそうで、11の楽器は、どのようにわけてもバランスが悪い。二つに分けても、三つにわけてもバランスが崩れてしまう、「11の楽器がそれぞれ自己主張を続け、ばらばらになるか、それともそれぞれの特長を持った11の楽器がひとつの音楽を演奏するか、この二つ以外にはない‥‥」とバレンボイムは語りました。ここでその曲をお聴かせできないのが残念ですが、バレンボイムは、「それは人間関係においても同じではないですか」と聴衆に問いかけました。また、「アパートの各部屋にはいろいろな家族が住んでいて、そこには日々さまざまな出来事が展開されているが、アパートはひとつではないですか。自分はそのような音楽を目指しています」と語りました。このたとえは、まさにさまざまな国家が存在しても、地球という環境の中でひとつになって生きていかなければならない人類の姿を描こうとしたのかと、私は考えました。
後半の第2部では、ピアノでテーマを提示し、オーケストラがそれを編曲して演奏とするというブーレーズの別の作品が演奏されました。バレンボイムはピアノを弾き、そして指揮をする‥‥ということを何回か繰り返したのですが、その演奏が始まる直前に、オーケストラが舞台にあがり、バレンボイムがそれに続いて登場すると、大きな拍手が起こりました。その時に、バレンボイムは聴衆に向かって、「自分だけに大きな拍手をする必要はありません。一人と一人が指揮し合い、三人と三人が指揮し合って、ひとつの演奏がなされるのです」と語りました。
バレンボイムは、決して指揮者はいらないと主張しているのではないと思います。指揮者は指揮者としての役割を果たす、だけどすべて指揮者の言いなりになるということではなくて、それぞれの演奏者はそれぞれの役割を果たす。お互いにそれぞれの性格を生かし合い、お互いによさを発揮しながら、お互いに聞き合い、ある時は反発し合い、ある時はぶつかり合いながら、お互いに理解を深め、一つの演奏をつくりあげていく‥‥このことが大切だと言おうとしたのだと思います。
指揮者ひとりが音楽をつくりだすのではありません。指揮者も、演奏者も、それぞれの力を合わせ、ともに生きるときに、ひとつの音楽が生まれます。私は、「牧師」とは、そのような「指揮者」のような存在だと思いました。
神が私たちに望んでいることは、賜物を与えられている一部の人たちが、賜物を与えられていないそれ以外の人たちを導くということではありません。神は、私たちがすべて罪人であるにもかかわらず、それぞれに賜物を与えてくださるのです。大切なことは、それをお互いに発見し、成長させ、お互いのために生かしていくことです。そのような歩みを、教会の中にいる人たちとも、外にいる人たちとも、続ける者となりましょう。
主なる神さま、
あなたは私たちそれぞれに賜物を与えていてくださいます。
それをあなたのために、
またお互いのために生かすことができるよう導いてください。
教会の中にいる人たちとも、外にいる人たちとも、
お互いに理解し合い、力を合わせて
ともに生きることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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