「復活の朝」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

ヨハネ福音書は、我々に「愛」を教えている。単に教えているばかりではない。愛を証しすることによって、読む我々を生かす。今日の箇所は、復活日の早朝、マグダラのマリアがイエスの墓の外で経験したことを記しているが、これは「我々を生かすのは愛である」という証言に他ならない。

最近、私は心の中で、先に召されて行った親しい人々(家族・教会の懐かしい仲間・友人)に向かって、名を呼んで語りかけることが多い。その人たちはたいてい何も言わないが、微笑み返してくれる。記憶に残っているのは、その人たちの「愛」だけだ。パウロは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13,13)と言ったが、その通りだ。

マリアも、死んだ主イエスとの間で、そのような交流をしていたのではないか。墓の外に立って泣いているマリア。涙と共に「わたしの主が取り去られました」と訴えるマリア。「なぜ泣いているのか」と問いかける人がイエスだとはまだ分からず、混乱しているマリア。そして、最後に温かく「マリア」と呼びかけられた時、一瞬でそれがイエスであることを悟り、振り向いて「ラボニ」と応答するマリア。

この経過は、復活という出来事の「説明」ではない。重い過去を背負って生きてきた女弟子マリアがイエスとの間に交わした人格的な交流の証言である。イエスがどんなに真実に群衆を、弟子たちを、そしてマリアを愛されたか。その記憶が圧倒的な力で彼女に迫る。そしてマリアは新しい命に満たされる。「我々を生かすのは愛である」という人生の真実の、まことに美しい証言としてこの箇所を受け取りたい。

今日の説教の最初に私は、ヨハネ福音書は我々に「愛」を教えている、と述べた。

そもそも、第1章の「万物は言によって成った」(3)という創造の叙述も、「言は肉となって、私たちの間に宿られた」(14)という受肉の秘儀も、神の愛の力を告げ知らせているのであり、そこからこの福音書は始まっているのである。この愛の最高の表現が、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3,16)である。十字架の死が迫った時、主イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ」(13,1)、彼らの足を洗われた。それから、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13,34)という新しい掟を与えたのであった。「愛」は背骨のようにヨハネ福音書を貫いて支えている。

そしてこの愛は「いのち」である。この福音書では、「愛」と「復活」と「命」は一つである。ロシアの文豪ドストエフスキーがことのほかヨハネ福音書を愛したのも、理由のないことではない。事実、『罪と罰』で彼は、決定的な場面でヨハネ福音書を引用する。

――貧しい学生のラスコーリニコフは、自分のように才能のある若者が極貧にあえぎ、なんの将来性もない金貸しの老婆が沢山金を持っているというのはいかにも不合理であるという思い上がった気持ちから、その老婆を殺して金を奪う。だが、流石に良心に咎められ、金を使うことも出来ないでいる内に無垢な娼婦・ソーニャと出会う。彼女の部屋で、ヨハネ福音書の11章、「ラザロの復活」の箇所をソーニャに読んで貰う場面は圧巻だ。特に、21-27節32-36節をソーニャは自分でも深く感動しながら、「いかにも苦しそうに息をついで、一語一語はっきりと、力をこめて読み上げた」。「蝋燭の燃えさしは、この永遠の書物を読むためにこのみすぼらしい部屋で不思議なことから顔を合わせた殺人者と淫売婦の姿をぼんやり照らしていた」(小沼文彦訳)。この場面は、疑いもなくこの作品の頂点である。

これが転機となって、彼はソーニャに犯行を打ち明け、勧められて自首し、シベリヤの流刑地に送られる。ところが、彼女はシベリヤまで彼について行く。

地の果てのような所で数年を過ごした後、復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていた。突然、彼は泣いてソーニャの膝を抱きしめる。彼女の無私の愛が、遂に彼を深く揺り動かしたのである。「二人の顔には、新しい未来への曙光、新生活への完全な復活の曙光が既に輝いていた。彼らを復活させたのは愛であった」とドストエフスキーは書いている。

「二人は辛抱して待とうと決心した。彼らにはまだ7年の月日が残されていた。…その時までにはどれほどの堪えがたい苦しみが待ち受けていることだろう。しかしながら彼は甦ったのである」。

愛が彼らを復活させた!

主イエスの愛は、マグダラのマリアを復活させた。一旦は逃げ去った弟子たちと、三度「イエスを知らない」と否認したペトロを復活させた。それはソーニャを動かして殺人者ラスコーリニコフを復活させ、我々すべての者を復活させる。

主イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。…このことを信じるか」。復活の主は、我々のたとえ死ぬべき命であっても、与えられた一日を信仰において全うするように「いのち」を与える。「このことを信じるか」。我々にはこのことが問われている。


 
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