失敗に学ぶ”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
”失敗に学ぶ”ということを考えてみました。人生には、失敗はつきものです。何かをやろうとしたら、最後までスムーズにやり遂げることなど滅多にありません。ほとんどの場合、人は途中でくじけそうになったり、諦めかけたりするものです。しかしながら、自分の経験だけでなく多くの人々の経験から分かることは、失敗は必ず次に役立つものであるということです。そもそも英語のSUCCESS(成功)という言葉自体、「後から来る」という意味のラテン語に由来しています。それが何の後から来るのかというと、失敗の後からなのです。つまり、成功とは失敗の後から来るものである、ということです。特に、大きな失敗は、一時的には大きな痛手にはなりますが、その度合いが大きいほど、めざましい変化につながります。なぜなら自分を真剣に変革しようという気持ちが生まれるからです。よく、大失敗したり、大病をしたりした人は、人間的にも大きく成長していることから、ずっと魅力的な人間になると言われます。だからこそ、そのような人は素晴らしい親友を見つけやすいと言われるのです。最悪の失敗ですら、「次はやり方を変えたほうがいい」と私たちに教えてくれます。世界最高峰に7度の登頂を果たした米国の登山家ピート・アサンズは、「エベレストに挑んだ最初の4回の遠征では、どうやったら登れないかを学びました。失敗は、アプローチに磨きをかけるチャンスを与えてくれるものです」と言っています。その意味では、中途半端な失敗よりも、大きな失敗の方が良いくらいです。人間というのは、どうも成功からはあまり学ばず、失敗して初めて真剣に物事を考え、大切なことを学び取っていくようです。聖書の中にも、多くの失敗をした人々の人生が記されています。信仰の父と呼ばれる、あの偉大なアブラハムでさえも大きな失敗を経験しました。それは創世記の1章に出てくる出来事ですが、彼の生涯において最も大きな失敗でした。アブラハムはこの失敗によって、13年間も神からの呼びかけを聞くこともなく、神からの導きも一切ないという、神の不在経験を余儀なくされたのです。逆に、その失敗は家庭内にいろいろな問題を引き起こし、そればかりか、4000年以上たった今日においても、世界はその問題を引きずっているのです。神を信じるクリスチャンにとっても、失敗のない人生、失敗のない信仰生活はあり得ません。創世記1章のような出来事は信仰者の誰もが必ず引き起こす間違いです。つまり、それは神から与えられた約束を、私たちの力で実現しなければならないと考えてしまうことからもたらされる失敗です。「失敗は成功のもと」という格言があるように、神を信じる人生においても、私たちは多くの失敗の痛みを通して、多くのことに気づかされ、成長していくものです。やがてイスラエルの民も自分たちの国を失うという痛みを経験しながら、はじめて神の教えを喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむというライフスタイルを形成していきます。「苦しみに会ったことは、私にとって幸いでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)という詩篇の記者の告白も、自らの失敗を通して学んだ結実でした。創世記に記されたアブラハムの全生涯を見渡すとき、彼に対する神の導きの中に失敗の経験が無駄なく組み込まれているように見えます。失敗それ自体は、辛く、痛みを伴うものですが、それがやがて益となり、アブラハムをして「信仰の父」と呼ばれる者に導かれた神の恵みと真実に絶えず心を留めていきたいものです。
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