今日の説教テキストについて述べる前に、先ず11章を瞥見しておきたい。
11章1節で著者は、簡単明瞭に信仰を定義している。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。そして、その実例として、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった旧約聖書の代表的な人物を列挙する。12章1節で「おびただしい証人の群れ」と言っているのは、差し当たりこの人たちのことだ。彼らは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」して生きた。信仰的な生き方の見事な証しだ、というのである。
しかし、「証人」(マルチュス)という言葉には、「殉教者」という意味もあることに注意したい。11章35節以下に描写されているのは、名もない人々の正に殉教者としての苦難の生涯である。
「…更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました」。そのすぐ後で「わたしたちは、おびただしい証人の群れに囲まれている」(1)と言っているわけだから、ここで言う「証人たち」とは、「殉教者」を意味していると思われる。
この人たちは、地上の生活においては「成功者」ではなかった。生涯、迫害され、嘲られ、殺され、あるいは迫害を逃れて難民とならなければならず、神から「約束されたものを手に入れる」(11,39)こともなかった人たちである。世間的には、「マイナス」の符号をつけられた人たち。その人たちが実は、我々が苦しんでいる時に、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(マタイ 23,37)我々を温かく・力強く取り囲む。苦しんでいる人を助けることが出来るのは、本当に苦しんだ人だけだ。
そして、この証人たちは、主イエスの真実な苦しみを自らの血と涙をもって証ししたのである。彼らは、信仰者の在り方を実例で示したという意味での証人でもあるが、それ以上に、主イエスの「十字架の証人」なのだ。イエスは「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んだ」(2)方であった。この苦しみを証しすることが、この世界にはどうしても必要である。そして、苦しみを潜り抜けて復活した主イエスが「神の玉座の右にお座りになった」(2)という証しが。この、マイナスからプラスへの逆転!
さて、以上のことに目を留めた後、私はここで特に、主イエスが「罪人たちのこのような反抗」(3)という言葉に注目したい。
主イエスの十字架の死は、彼が自分から好んで招いた出来事ではない。このことは、彼がゲッセマネの園で、ひどく恐れてもだえ、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と洩らし、「この杯をわたしから取りのけて下さい」と祈ったことからも明らかである(マルコ14,33以下)。
十字架は、「罪人たちの反抗」によって引き起こされた出来事である。福音書を読むと、あのように真実で愛に満ちた方を、この世の人々が寄ってたかって殺してしまったということがよく分かる。
もちろん、そこには様々な要素がある。先ず、ファリサイ派の律法学者たち。彼らは律法の「原理主義的・形式的な」解釈に固執していたために、根源に迫ろうとするイエスの律法解釈を認めることが出来ず、早くから殺意を抱いていた。これが主要な動機である。これに対して、弟子たちはイエスの真意を最後まで正確に理解することが出来ず、師を裏切ったり、ペトロのように「あんな人は知らない」と言ったりし、遂には皆逃げ去ってしまった。この弱さ。群衆は、イエスがエルサレムに入って来る時は熱狂的に歓迎したのに、三、四日も経つと手のひらを返すように「十字架に付けよ」と叫んだ。この付和雷同。総督ピラトは、イエスを殺すのは不当であることを認めながら、結局は責任を回避して「手を洗い」、「好きにしたらいい」と言って十字架を許してしまった。この無責任。
これらが寄ってたかってイエスを抹殺してしまったのだ。「罪人たちの反抗」というのはこのことである。真実な神に逆らい、神の子を抹殺する罪人の反抗。これが我々の世界である。旧約の時代もそうであったし、今もそうである。
だが、この世界がどれ程不真実であっても、それがすべてなのではない。その真ん中には十字架が立っている。著者は言う。「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように…このような反抗を忍耐された方のことをよく考えなさい」。
十字架の上で不当な死を遂げた方、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んだ方」は、決してそのまま滅びたのではない。彼はじっと黙ってそれに耐えていた。ペトロの手紙一 2章23-24節に、「罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って下さいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」とある通りだ。
こうして主イエスは、「神の玉座の右にお座りになった」(2)。「信仰の創始者また完成者」と言われるのはこのことだ。この方を見つめながら、我々は自分たちの道を走らなければならない。余計なものは捨てて、身軽になって。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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