エホバに絶対に従うことと他の権威には相対的に従うこと

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

エホバに絶対に従うことと他の存在には相対的に従うこと

 聖書が教えている重要な点のひとつは、エホバ神の主権です。つまり、エホバ神に絶対に従うことです。また、従順を求めるエホバ神以外の存在はどんな存在であっても、相対的に従うということです。エホバ神のご要求は聖書の中に書かれています。私たちはエホバ神の律法やご要求を聖書全体を読むことによって知ることができます。

 しかし、エホバ神以外の被造物は、完全な方であるイエス・キリストを除いて、エホバの証人の統治体の兄弟たちであれ、油そそがれたクリスチャンであれ、エホバの証人の諸会衆の長老たちであれ、諸教会の聖職者たちであれ、完全ではありません。もちろん、彼らが聖書に調和したことを言う時従うのは正しいことです。また、彼らに協力することも正しいことです。

 たとえエホバの証人の統治体の兄弟の教えであっても聖書に調和していないなら盲目的に従っても従う人が正しくなるわけではありません

 聖書は「あなたがたの間で指導の任に当たっている人たちに従い,また服しなさい。彼らは言い開きをする者として,あなたがたの魂のために見張りをしているのです。」と述べています。(ヘブライ13:17)諸会衆の監督たちは、信者が神に忠実を保つ助けとして、さまざまな助言をするかもしれません。それに従うのは、他の信者たちの益になると思います。

 しかし、諸会衆で権威を与えられている人々の権威は相対的なものです。なぜなら、聖書は、諸会衆のクリスチャンに「神の言葉を語った人々」の「行ないがどのような結果になるかを良く見て、その信仰に倣いなさい」と言っているからです。(ヘブライ13:7) もし、その行いを観察して聖書に調和せず、悪いならば、その人に従うべきではないです。ですから、「指導の任に当たっている人々」の権威は相対的なものです。

 当然、指導の任に当たっている人たちの助言や指導は聖書に忠実な仲間の信者の益を求めるものでなければならず、単に権威を振るうことが目的のものであってはならないと思います。つまり、助言が単に「威張る」ことが目的のもの、単に権威を振るうことが目的であってはならないと思います。(マタイ20:25)

  それで、私たちは、エホバ神以外の存在に盲目的に従うべきではありません。なぜなら、エホバの証人の統治体も油注がれたクリスチャンも、エホバの証人の長老たちも、諸教会の聖職者たちも、聖書に不忠実になったり、聖書に基づかない誤った判断をしたりすることがあるからです。(ローマ5:12)

 エホバ神とイエス・キリスト以外の存在に盲目的に絶対的に従順に従って、彼らの指導が間違っている場合、やはりエホバ神の是認を得られませんし、その結果が良くなるということもありません。 イエスは「盲目の案内人」が存在することを述べ、間違った指導が他の人を「自分に倍してゲヘナに行くべき者とする」場合があると述べています。(マタイ23:15,16)

 それで、指導的な立場にある人々は、まず第一に聖書の律法と原則に従うように、強調するべきです。権威のある人たちは、もちろん仲間の信者に協力するように要請することはできると思います。

人に盲従するのではなく神の完全な言葉聖書に対する忠実が重要です

 以前、エホバの証人の統治体の兄弟が、大会で、長老たちに従うようにということを強調する話をしたことがありました。そして、その話は、仲間の信者が、その理由が分からなかったのに、長老に従った時に、保護になったという話であったと思います。 ですから、理由が分からなくても長老に従うようにその話の中で、強調されていました。しかし、これは、長老たちが聖書に調和しないことを助言した場合も、盲目的に従うように、奨励することと同じになってしまいかねません。

 当然、例え、長老たちの助言であっても、それが聖書と調和していないなら、従うべきではありません。第一にエホバ神とイエス・キリストに従うべきです。  統治体の兄弟たちであれ、長老たちであれ、聖職者たちであれ、そのいうことが聖書と調和しないならば、盲目的に従ってそれが正しくなるということもなく、結果が良くなるということもありません。

 例えば、ヨアブは、ダビデがウリヤを死ぬように取り計らうように指示した時に、ダビデの命令に盲目的に従順を示しました。(サムエル第二11:14-17)ダビデは通常、神とその律法に従う人でしたが、その時には間違った行動をしていました。油そそがれた者であったダビデの言うことに盲目的に従ったので、ヨアブのしたことが正しくなるということはありませんでした。

   ヨアブのしたことは、ウリヤの死をもたらす殺人でした。ヨアブはその他の点でも流血を禁じる神の律法に違反して、最終的には、ソロモン王に処刑されました。(列王第一2:31)

 一般社会でも戦時中に兵士が上官の命令で、残虐な行いをして、戦後に軍事裁判で、裁かれて有罪となるということがあります。上官の命令に盲目的に従うゆえに、間違った行いが正当化されるわけではありません。

盲目的従順の行為が後で裁判で罪とされることもあります 

 それで、例え、油そそがれたクリスチャンと言えども、その指示が神の律法や神の言葉に従っていない場合、盲目的に従うべきではありません。その結果は悪くなります。

 ナボテの住んでいた都市エズレルの人々は、アハブの王の妻イゼベルの指示に盲目的に従って、偽証を行なう人を準備して、罪のないナボテを石打ちにして殺しました。彼らは当時の政治上の権威アハブ王とその妻イゼベルを恐れて、彼らの指示に盲目的に従いました。

 エズレルの人々はイゼベルの指示に盲目的に従ってナボテを殺害しました

アハブ王は預言者エリヤと預言者ミカヤの預言どおりに死にました。(列王第一22:38)やもめになったイゼベルはエヒウに処刑されました。(列王第二9:33)さらに、エヒウはエズレルに住んでいたアハブの際立った者たちや知人や祭司たちを全部殺したと聖書は述べています。(列王第二10:11)

 エヒウ王はイゼベルとエズレルの人々を処刑しました

ですから、王の妻イゼベルの指示に盲目的に従ってナボテの殺害に責任のあった人々の大半はその時までに、命を失い当然の報いを受ける結果になりました。それで、それらの人々はエホバの裁きを逃れることができませんでした。

 使徒パウロはエルサレム会衆の長老団に敬意を払っていました。その決定を尊重しました。しかし、彼はエルサレム会衆の使徒たちや年長者たちに絶対的な従順を盲目的に示す人ではありませんでした。 ペテロやエルサレム会衆の長老たちが、クリスチャンが割礼を受けることを強調した時、パウロは聖書から論じました。パウロは、聖書の言葉を第一に尊重して、エルサレムの会衆の長老たちに盲目的に従わずにエホバ神とイエス・キリストに従いました。

 その当時のエルサレム会衆の長老団は、聖書に基づいたパウロの言葉に謙遜に従ったので、エホバ神の是認を保つことができました。パウロが神の言葉に確固として従ったことは、良い結果になりました。パウロはエルサレム会衆の長老団がエホバに忠誠を保つよう助けました。

 同様に、諸教会の聖職者が神の言葉への信仰を損なうことを言ったり、神の律法に不従順であることを悪い事でないと言ったとしても、それを盲目的に受け入れるべきではありません。例え、聖職者に盲目的に従順に従っていても、聖書の神に不従順であれば、やはり神の是認を失ってしまうでしょう。

 教会の聖職者が言うことがもし神の言葉と調和しないならば彼らに盲従しても神から是認されません

 それで、エホバ神とイエス・キリストに対しては第一に従うべきで絶対的な従順を示すべきです。(コリント第一11:3)神の言葉に示されている神の律法には、絶対に従うべきです。

 

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