金持ちと貧しい人

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「金持ちと貧しい人」

秋葉 正二
イザヤ書58,3-11;

 富について聖書から学ぼうとする時、一貫した見方・考え方を見出すことは簡単ではありません。 個々の文書によって富に対する見解が異なるからです。 富むこと自体は親から財産を貰おうと、自分で稼ごうと、生きている結果として現れ出る一つの状態ですから、もしそこに個人的な価値観を反映させようとすれば、金持ちならば富を肯定的に見るでしょうし、貧乏ならば批判的になるだろうと思います。 教会の中にもお金持ちがいるし、貧しい者もいます。 またそうは言っても、一人ひとり貧富の判断基準が違いますので、そのことも考えておく必要があります。 とにかくいろんなことを含んだ上で、キリスト者ならば、自分の置かれた状態を超えて、金持ちであろうと貧乏であろうと、富に対する基本的な見方をイエスさまから学べるはずです。 イエスさまに学ぶと言っても、これまた容易ではありません。 イエスさまに旧約の預言者の系譜を見るならば、一応富に対しては批判的だと言ってよいかもしれません。 たとえばアモスのように、かなり激しい非難を大地主や商人や王侯貴族に向けた預言者が存在するからです。 アモスはそうした人たちが、貧しい人々を虐げることで富を蓄えた現実を告発したわけです。 アモスの時代は、貧富の格差が極限に達した時代ですから、貴族たちが贅沢の限りを尽くす一方で、貧しい人たちが売られたり、踏みつけられていることに、アモスは我慢できなかったのです。

  「箴言」(28,6etc.)とか「ベンシラの知恵」(34,21ff.)などを見ると、知恵文学の中にも富める者の不正を批判する記事がありますから、預言者的な精神は黙示文学の中にも継承されています。 ですから全体的に言えば、一応旧約聖書・ユダヤ教の伝統の中に、金持ち批判と貧しい者に対する神の庇護が表れていると言えます。 こうした旧約の伝統を受け継いだ者として、イエスさまを位置付けるならば、イエス様は金持ちに批判的であると言えます。 同じルカ福音書の6章20節以下には有名な『貧しい人々は幸いである』に始まるくだりがありますが、ルカはマタイの「山上の説教」のように「心の貧しい人々」とは言わずに、ズバリ「貧しい人」と言い切っています。 聖書学者によれば、ルカの方が本来のイエスさまの言葉に近いだろうということです。 イエスさまは他の箇所で金持ちに対する災いも語っていますので(6,24etc.)、イエスさまは金持ちに批判的だと見てよいでしょう。 前置きみたいにいろいろ述べましたが、以上のようなことを念頭に置いて、きょうのテキスト「金持ちとラザロ」の話を見てみましょう。 内容には二つのテーマが盛り込まれています。 一つは25節までです。

 貧しい者を気にかけず世話をしない金持ちは、死後の国で苦しみ、貧しい者は死んでから慰められる、という教えです。 この世における両者の生活ぶりが対照的に語られています。 確かにここに登場する金持ちは贅沢三昧の享楽的な生活にふけっており、門前で横たわるラザロなど無視しました。 憐れみの心などみじんもないようです。 ラザロの方は物乞いのひもじい毎日を過ごしていた、とあるだけで、彼がどんな意識だったかなどは書かれていません。 飢えに苦しむみじめな物乞いであったことだけが確かです。 21節には 『犬もやって来ては、そのできものをなめた』 とあるのですが、犬を侮蔑的に登場させています。 愛犬家としてはあまりおもしろくない引用です。 イエスさまの時代は狩猟犬や牧羊犬がすでに活躍していましたが、野犬となった犬の存在は、死肉を食べるとか、病人などの血をなめたというようなことがあったようで、一般的にさげすみの対象ですから、このように引用されるのは仕方ないのかも知れません。 ラザロは犬と同様にさげすまれているシーンです。 権力ある者や金持ちが低くされ、弱い者貧しい者が高められるというのはイエスさまの基本精神ですから、この世とあの世で境遇が逆転するという話の筋はよく分かります。

 ところで、先週の祈り会で同じルカ1章にある 「マグニフィカート(マリアの讃歌)」を学んだのですが、そこにも 『権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返す』 とありましたから、ルカ自身がイエスさまの基本精神というものをしっかり継承していたのでしょう。 もう一つのテーマは、27節以下ですが、31節に象徴的に描かれています。 『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』 ということです。 これは奇跡というしるしによって、イエスさまを信じさせることの無益性を指摘した言葉です。 この二つのテーマが26節で結ばれているというのがこの箇所の構造です。 こうしたテーマを展開するにあたって、死後の様子が語られているわけですが、なんと族長のアブラハムが登場しています。 ラザロは死ぬと天使によって、アブラハムがいる宴席に連れていかれます。 宴席というのがまた面白い表現です。 飲んだり歌ったり、楽しく過ごせるのが宴席ですから、天国はとても居心地のよい所として表現されています。 アブラハムはイスラエルにとって「信仰の父」と呼ばれる特別な存在ですから、アブラハムを引用することは強い説得力を持ちます。 金持ちの方は死後陰府に降り苦しむのですが、ふと目を上げると宴席のアブラハムとラザロが見えたというのです。

 当時の宗教的世界観ですが、天国とこの地上と陰府の三層構造をイメージすればよいでしょう。 金持ちは陰府で歯噛みをすることになり、アブラハムに何とか助けて欲しいと懇願します。 そこで、アブラハムと金持ちとの間に悔い改め論争とも言うべきやり取りが交わされますが、結論としては、この金持ちは天国行を拒否されますし、自分の兄弟たちの救いの話を持ち出しても、一つ目のテーマで示されていたことと同様に、たとえ死者の中から生き返る者があっても、モーセと預言者に耳を傾けることがないならば、聞き入れはしないだろうと指摘されて、願いは聞き入れられません。 普段から神さまの許に立ち帰る生き方をしないと、あの世であがいてもどうにもならないよ、と言われてしまうわけです。 人が救われるためには何が必要なのかが示されています。 金持ちが自分の家の門前の物乞いを気にかけるかかけないか、というのがきょうの話の状況設定ですが、私たちの自分の家の門前の物乞いとは一体誰なのでしょうか?  実際の生活の場面で、私たちが貧しく生きざるを得ない人たちのことを、どのくらい意識しているかが問われます。 この話に合わせるならば、私たちは間違いなく金持ちの方です。 日々、食べ物に困ることはないし、何を食べるかまで選べる環境に居るのですから、現代のラザロとは誰のことなのかをしっかり意識して、私たちは現代のラザロに目を向けなければならないでしょう。 考えれば、キリスト教の歴史の良い面を振り返った時、古代でも中世でもずっとキリスト教は「貧しい者への愛」を実践してきた宗教であることが分かります。 ホスピタルの原型は古代に見出せますし、サンタクロースで有名になった司教ニコラウスも貧しい娘たちを救った行為が発端でした。

 修道院の発展も貧者救済に関わっています。 とにかく、もっとも重要な点は、イエスさまが貧しく生きられたということではないでしょうか。 貧しい者はイエスさまなのです。 それはマタイ福音書の10章とか25章でも示されていることです。 私たちはイエスさまに救われた存在ですから、イエスさまに倣って生きようとするのが当然です。 神さまが人間を愛してくださったというのは、神さまこそが最初に人間に施しをなさったお方だということです。 神さまはそれこそ無償で豊かな自然を人間に与え、大地の実りを与えてくださいました。 そのことから貧しい人への愛の実践がスタートしたのです。 目下日本を含め、貧富の格差増大が大問題になっていますが、それをどうのように解決していくかに私たちはそれぞれできる限りの努力をしなければなりません。 それもまた貧しい人への施しにつながることです。 イエス・キリストの自由な愛の精神は、まちがいなく社会改革にもつながります。 祈りましょう。


 
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