「弟子たちに現われた主イエス」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

ヨハネ福音書20章によると、十字架上で死んで葬られたイエスは三日目に復活し、その日の朝早く、墓のそばでマグダラのマリアに現われた(11-18)。その日の夕方には、密室に集まった弟子たちに現われた(19-23)。なかなか信じようとしなかったトマスにも現れて彼を信仰に導く(24-29)。ここでこの福音書は一応完結したらしい。だが、その後で21章が付け加えられた。今日の箇所はその最初の部分である。イエスはテイベリアス湖畔、つまり、ガリラヤ湖畔で「弟子たちに御自身を現された」(1)。

 このように、復活物語には「現れた」という表現が頻繁に用いられる。これは、最古の復活伝承である第一コリント15章でも同じであって、「ケファに現われ、その後十二人に現われ…次いで五百人以上もの兄弟たちに同時に現われ…ヤコブに現われ…すべての使徒に現われ…最後に、わたしにも現われた」(5節以下)とある。

一体、「現われた」とはどういうことなのだろうか。

「幻覚」とか「集団ヒステリー」とか、要するに心理学的な現象ではないか、と解釈する人もいるが、これは違う。そもそも福音書は、「イエスにおいて新しい歴史が始まった」というメッセージを伝えることを意図していたのだから、このような心理学的な解釈は「お門違い」であると言わねばならない。

さて、この「現われた」という言葉だが、あるドイツの神学者は、「イエスの事柄は継続する」と言い換えた。このドイツ語は、中々日本語に直しにくいのだが、少し私の言葉を補って説明すると、こういうことになるだろう。

――イエスは生涯をかけて一つの「事柄」と取り組んでいた。それは、「どんな人でも神に愛されている」ということである。世間から見捨てられた人や、自分で自分に愛想を尽かしたような人でも、神は愛し給う。この愛を、イエスは終生、その言葉と行いをもって、いや、存在そのものを通して輝かせた。パウロが「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」(ローマ8,35)と言っているように、これは、決して断ち切られることのない強い絆である。だから、イエスはあらゆる真実を込めて「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3,16)と言ったのであり、そしてこれこそ、彼が取り組んだ「事柄」なのだ。

さてこの「事柄」は、人々の目には、十字架の死によって頓挫したように見えたかもしれない。「イエスが死ぬと同時に、何もかも終わったのだ」と。あの福音は、彼が生きている間だけの、つかの間のエピソードだったのではないか。その証拠に、我々の世界は愛によってではなく、結局のところ「利己主義」によって動かされ、支配されているではないか。

広瀬隆『アメリカの巨大軍需産業』(集英社新書)を読んだ。アメリカの国防予算は3000億ドル(36兆円)に達するという。冷戦後、軍需産業は次々に統合されて巨大化する一方だ。最新兵器を開発して軍に納入する。莫大な利益を上げる。世界各国に売り込むことも盛んだ。しかも、ホワイトハウスや国防総省と、軍需産業の間には根強い癒着の構造がある。こうした実態が良く分かって背筋が寒くなった。

 世界の平和を愛する人々は、冷戦構造がなくなったことを素直に喜んでいるが、どうもそれほど単純なものではないらしい。戦争が起こってどんどん武器が消費されることを期待するような仕組みが、世界の政治・経済を陰で動かしている。これが、世界の現実ではないのか。

だが、復活した主イエスが「現われた」、と聖書は言う。イエスの事柄は彼の死によって終わったのではない。それは継続している。生き続けている。弟子たちを生かし続けている。そのことを通して、歴史的世界の中で、目に見えるほど大きな力ではないかもしれないが、人の心の中に深く静かに根を下ろして、そこから絶えることなく神の約束を発信し続けている。これが聖書のメッセージである。

 これを信じるか、信じないか。もちろん、信じないことも自由だ。だが、これを信じない時、我々に残されるのは絶望だけではないか。

今日のテキストには、そこはかとないユーモアがある。イエスの死後、弟子たちはガリラヤの古巣にUターンしてまたぞろ漁師になっていた。その夜は夜通し漁をしたが、一匹も獲れない。疲れ切った表情。不意に誰かが岸辺に現われて「何か食べる物ない?」と尋ねる。「何もありませんよ」と不景気な答えをするしかない。するとその人は、これらプロの漁師たちに向かって、「もう一度網を打て」と指図する。渋々従うと驚くべき大漁だった! この瞬間、誰かが気づく。「主だ」と叫ぶ。慌てて上着を身にまとって水に飛び込むペトロ。夜明けの湖畔で、主と共に、朝食が始まった!

この話は、単に偶発的な出来事としてここに描かれているのではない。復活のイエスは、五つのパンと二匹の魚で5000人が満腹したという奇跡(6,1-15)を弟子たちに思い起こさせているのである。それは、たとえ物は十分にはなくても、「愛をもって分け合えば、きっと生きて行ける」という真理である。人を殺傷する武器・兵器を売って莫大な富を積むこの世のシステムとは全く逆の、そしてこれこそは真に人を生かす真理である。復活の主は、この真理が継続するということを示したのであった。

 今日は教会総会。我々の教会もこのように生きる時、イエスの事柄は継続される。


 
 

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