「復活した主イエスの問い」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

復活した主イエスはペトロに向かって「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15)と問われた。「この人たち以上に」というのは、「他の弟子たちと比較して」という意味ではない。「愛」や「信頼」といった人格的な関係は、他人と比較して自分の方が多いとか少ないとか、量に換算できるようなものではない。小説などに、「誰にも負けないくらいあなたを愛している」などと言う人が出て来るが、その人も他人との比較ができると思っているわけではなく、ただ「ひたむきさ」を表現したいのである。ここでのイエスの問いも、同様に理解してよいであろう。

では、「イエスを愛する」とはどういうことか。

人間は感情の動物でもあるから、「好き・嫌い」という感情に動かされる。もちろん、感情にも重要な意味がある。これを無視すると、理性に偏った、頭でっかちの人間理解になり易い。正しいことではない。その意味で、最近キリスト教神学の中に「感情」や「肉体」を正当に評価する傾向が出てきたのは、良いことだ。

しかし、「イエスを愛する」というのは、そのような感情のレベルの問題ではない。感情的な要素が全くないとは言えないが、ここではむしろ関係の問題であろう。

イエスは、「どんな人間でも、神によって愛されている」と教えた。神と人間との間には、旧約聖書が「契約関係」と言っているような、人格的な愛の関係が結ばれている。イエスの全生涯は、この事実の証しであった。神は、どんな人とも、そしてどんな時でも、愛をもって共にい給う。「神われらと共にいます」(インマヌエル)!

この根源的な関係を知る時、人間は初めて真に人間らしい、喜びと希望に満ちた存在となる。だから、イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛せよ」と命じ、また、これを人間関係にも反映させて「隣人を自分のように愛せよ」と命じたのである。

復活したイエスが「わたしを愛するか」と問うのは、彼の死後もこの根源的な関係がいささかも変らずに継続しているということをペトロに思い起こさせるためである。

さて、イエスはここで同じことを三度、繰り返して問うている。少しくどいのではないか、と感じる人もいるであろう。しかし、三度ということには意味がある。

十字架につけられる直前、イエスはゲッセマネの園で、「この杯をわたしから取りのけて下さい」(マルコ 15,32以下)と三度祈った。パウロも、辛い持病を「離れ去らせてください」(第二コリント 12,8)と三度祈った。三度というのは、「徹底的に」ということである。二度までは偶然が重なることがある。だが、三度となると、明確な意識がなければ繰り返すことはできない。

そして、この「三度」ということについては、ペトロにも辛い記憶がある。イエスが死刑の判決を受けるに至ったあの宗教裁判の場で、「お前もイエスの仲間だろう」と詰問されて、「イエスのことなど知らない」と三度繰り返して否定したことがある(マルコ 14,66以下)。三度否定する! 偶々、「ものの弾み」でそうなったのではない。十分に意識してイエスを否定したのであり、取り返しのつかない裏切りである。

「ペトロは、イエスが三度目も、『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17)とあるのは、そのためだ。ペトロは「忘れられたらどんなにいいか」と思っていたに違いない。そのような恥ずかしくも辛い記憶を、イエスによって呼び起こされたのである。あの時も、彼は男泣きに泣いた。今、あらためて悲しみの感情が深く彼を浸す。

「古傷を抉り出す」ようなことをしなくても、という考えもあるだろう。だが、人間には「忘れるべきこと」と、「忘れてはならないこと」がある。車を運転する人なら誰でも経験するだろうが、次の信号・横から突然飛び出してくる自転車等々、次々に新しい事態に直面する。それに対応して行くためには、それ以前の小さな記憶は直ぐ「忘れるべき」だ。いつまでもそれにこだわっていると、対応を誤る。

しかし、「決して忘れてはならないこと」もある。私は十数年前に、外国から帰国して早々、飛行機の中で碌に眠っていなかったのに事情があって車で出かけ、帰り道で追突事故を起こしたことがある。幸い大した事故ではなかったが、私はその時、「こういう場合決して運転してはならない」ということを骨身にしみて思い知らされた。今でも、それを思い出すと辛い気持ちになる。だが、事故を再び起こさないためには、この苦い記憶を決して忘れず、常に想起していなくてはならない。

今、「歴史教科書」の問題が再燃しているが、問題の発端にあるのは、「日本が過去に近隣諸国に対して犯した誤りはそろそろ忘れて、民族の誇りを回復すべきではないか」という、実に浅薄な考えである。しかし、将来の歴史を本当に誠実に担って行こうとするなら、過去の罪責は決して「忘れてはならない」。それを「忘れないで」いることは自分たちの国を貶めることにはならず、むしろ信頼回復へとつながる道なのだ。

ペトロはそれを想起させられた時、「悲しくなった」。だが、「神の御心に適った悲しみは取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」(第二コリント 7,10)とパウロも言っているように、罪責を自覚し・告白することによって、本当の将来は開けるのであるない。イエスは、罪を自覚したペトロにこそ、「わたしの羊(教会)を飼いなさい」(17)と、大切な使命を与えたのであった。


 
 

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