天地創造の業の6日目に、神は人間を創造した。この記事(祭司典)は今から約2500年も前のもので、多くの現代人は「これは科学的認識がまだなかった頃に信じられていた神話であって、要するに'おとぎばなし'みたいなものだ」と考える。今や、生命の発生と進化については、優れた科学者たちが実証的な研究に基づいて既にかなりの程度まで解明しており、それによれば、少なくとも数十億年の時間の経過がある。「神が6日間で天地万物を造った」などということはあり得ない、というわけだ。
だが、科学的でないからと言って、見くびってはいけない。
最近では、文化人類学や民俗学、宗教学、さらには深層心理学などの進歩に伴って、古代の「神話」や「伝説」、「民話」などが見直されている。その理由は、それらの中には、人間や世界の意味に関する古代の人々の、素朴だが、現代にも十分通用する洞察が表現されていると思われるからだ。
創世記のテキストが世界の成り立ちや生命の発生に関する科学的な説明でないことは、言うまでもないであろう。だが、それとは別の次元で、人間として避けて通ることができない問題がある。――ここに世界があり、私が生きている。この事実の意味は何か、という問いである。これを聖書は問題にしている。私が生きていることに、そもそも意味などないのか。あるいは、単なる偶然なのか。
1945年8月1日の夜、私が在学していた東京陸軍幼年学校は米軍機の空襲を受けて、八王子の町と共に全焼した。雨のように降り注ぐ焼夷弾の中を裏山に逃げ込んで九死に一生を得たが、この空襲で11人の学友が死んだ。明け方、彼らの死体を泣く泣く焼け残った材木の上に並べて火をかけ、荼毘に付した。生き残った者たちはそれを囲んで立ち尽くしていたが、私の心には、どうしても解けない重い問いがあった。
何故あの焼夷弾はこの友達に当たって、私には当たらなかったのか。私がもう10センチ左に寄っていたら当たったかもしれないし、もう1分遅く動き出していても、やられたかもしれない。私が死ななかったこと、こうして生き延びたということは、偶然だろうか。それとも、何か意味があるのか。――この問いは、人間が生きている所では、いつの時代でも必ず生じる永遠の問いではないだろうか。
そして、今日のテキストはこの問いに答えているのである。
私たちが生きているのは、偶然でも無意味でもない。神の意志による! これが聖書の答えである。神が、天地万物を創造した大いなる方が、私たちが存在することを望んだから、私たちはここにいるのだ。
だが、その後で、創世記はさらに具体的に、人間は「神にかたどって創造された」(27節)と言い、次のように展開する。――神は、人間を神に似た姿で造り、これに「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と望んだ(26節)。そして、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(28節)と命じた。つまり、すべての被造物の中で人間が支配権を持つことが神の意志である、というのである。
正にここに、今私たちを悩ませている問題がある。
アメリカの歴史家で中世農業技術史を専門とするリン・ホワイトは、1968年に『機械と神――生態学的危機の歴史的根源』という本を書き、その中で、キリスト教がユダヤ教から引き継いだ創造信仰こそ現在の生態学的危機の根源である、という主旨のことを述べている。中でも、「地を従わせよ」という個所をやり玉に挙げる。神が人間に支配権を与えたという思想は、自然界のすべてのものを人間の思うままに処理しても構わないという考えに結びつき、これが現在のような地球環境の破壊をもたらした、というわけである。従って、「キリスト教はとてつもない罪の重荷を負うている」と彼は言う。同じような批判は、東洋の思想家たちからもキリスト教に対して向けられている。鈴木大拙、最近では梅原猛等々。
これに対して私たちは何と言うべきであろうか。
聖書の中に「地を従わせよ」という言葉があるからだめだ、と言うのは短絡的である。リートケというドイツの神学者が、この言葉は歴史上さまざまに解釈されて来たと言って、いわば「解釈史」をまとめている。その中で興味深いのは、第四世紀頃の教会指導者たちが、「地」を「人間の貪欲」と理解していたという事実である。そうなると、「地を従わせよ」は、「人間の貪欲を抑制しなさい」という全く反対の意味になる。おそらくこの解釈は、聖書のテキストの厳密な釈義とは言えないかもしれない。しかし、聖書の根本精神に近い解釈ではないだろうか。
しかし、17世紀にデカルトという哲学者が現れて以来、「地を従わせよ」という言葉は全く別の方向で解釈されるようになった。すなわち、人間はあらゆるものの中心であり、その理性の力によって世界を支配すべきものだ、という方向である。それは一方で近代の科学技術の発展を促したが、他方、後の環境破壊につながる元になった。
先に述べたように、聖書を読む場合、多様な解釈が可能である。だが、イエスを通して解釈するのが、私たちのすべきことではないか。彼は旧約聖書の全体を、神を愛し・隣人を愛するという観点から理解し・解釈した。そして、「支配する」ということは「仕える」ことである。(マルコ10,42-45)ここから創世記も解釈できる。人間には支配権が与えられたが、支配の意味は、全被造物の命に仕えることに他ならない。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.