聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その2)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

藤本満先生によるゲスト投稿の第2回です。第1回目の投稿はこちらです。



『聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)

聖書信仰(2)
ギャップに架けられた橋2――聖霊

前回、聖書信仰が向き合うべき二つの命題(①聖書が永遠なる神の普遍的言葉である、②それが特定の古代の言語によって記され、歴史的文化的に規定されている)の緊張関係について記しました。二つの現実の緊張関係・ギャップに架ける一つの橋は批評学です。

そして、もう一つの橋があります。福音主義は本来こちらの橋を頻繁に用いてきました。しかし、この橋の使用にたけてはいるはずが、いわゆる聖書の「無誤性」を強く主張する保守的な福音主義においては、第二の橋は、かなり制限されてきました。その第二の架け橋とは、聖霊です。

17世紀のプロテスタント正統主義、それを引き継いだ米国のプリンストン神学(ホッジやウォーフィールド)、さらにそれを継承した米国の保守的な福音主義にあっては、聖霊の働きは聖書が記されるときに記者に働いた「霊感」に集中します。聖霊は記者に書くべき事項を示し、聖霊はそれらの事項を表現する言葉の選択を促し、それらの言葉を書き記させ、聖霊は本文と正典の保護保全に働いた、と。

聖霊の霊感は聖書が記された時点に限定され、後に、聖書を読むときに働く聖霊の力は、「照明」と呼ばれて区別されます。もちろん、「霊感」と「照明」の区別は妥当だと思います。しかし実際には、プリンストン神学が霊感されて神の息吹によって吹き出された聖書の完全性を確立すると、その完全な聖書を実証し、解釈するために登場したのは、聖霊の照明ではなく、理性でした(拙著5章「理性の時代の聖書信仰」)。

「霊感された聖書」は、古代の文化脈を超えた普遍的な真理そのものとなり、そのように信じる者は、現代のいっさいのことを客観的な真理の書物によって判断すべきだと考えます。そこで大切なのは、客観的な真理命題を体系づける神学、言葉を釈義する理性です。その意味で、保守的な福音派は、とても理性的・客観的です。

しかしそのとき、福音主義が最も大切にしてきた、神の言葉によっていまも新らたに生起する神の語りかけ、神と人との交わり(コミュニケーション)という側面は後退します。「霊感された書物」の客観性・普遍性・絶対性を確立すると同時に、聖書の完璧な無誤性に聖書信仰の核を据えているうちに、いつのまにか、「神は御言葉を通して私に語りかける、聖霊は御言葉を通して私を救い、変貌させる」という福音主義の体験的・救済論的真髄は、犠牲になったのではないでしょうか。いや「犠牲」とまでは言わなくても、神との交わりとしての聖書信仰は、たましいの救い、あるいはデボーションの世界のことに限定されてしまったように思います。つまり、昔も今も変わらずに人に語りかけ、人の生を変貌させていく聖霊の働きは、絶対的・客観的真理を確信する「聖書信仰」の陰に隠れてしまった時期があったように思います。

そもそも、聖書はそのような絶対的客観的真理という枠組みで記されていたのでしょうか。英国福音主義の聖書学の確立に尽力したF・F・ブルースは、聖書は単純に客観的に一方的に神の側から伝えられた御旨という啓示理解ではカバーしきれないと言います(拙著、201-203頁)。聖書の歴史的記述の中には民の反応(信仰か不信仰か、服従か不服従か)も記されています。人間側の応答の典型は詩篇です。聖書は必ずしも神が人に語りかけるのではなく、人が神に、あるいは人が人に語りかけている既述もあります。そして、それらがすべて後の読者にも意味があるように記されています。

 

さて、聖霊の働きを、記者の側から読者の側へ、記された過去から読まれる現代へと、圧倒的なシフトをはかったのがカール・バルトです。単純すぎる表現ですが、バルトは、人間的な要素をたくさん含んだ聖書の言葉は、読者が聖霊の感動を受ける今、「神の言葉になる」と説明しました。それは「今」働く聖霊の感動です。

この考え方に保守的な福音主義は反発します。なぜなら、聖霊の働きを「今」にシフトすることによって、過去において霊感された啓示としての言葉の完成度が低められると考えたからです。

しかし、聖霊の働きの「今」へのシフトは、最初に挙げた二つの命題をどちらか一方に解消せず、二者の緊張関係を保ったままで、二者のギャップを埋めるために、強調されるべき架け橋だったに違いありません。米国改革派の福音主義的神学者であるドナルド・ブローシュは、聖書の言葉が「今」聖霊によって用いられるというダイナミックな「言葉と霊」(Word and Spirit)の関係を次のように説明しています。聖書はそれ自体、その本質において啓示であると考えるべきではない。「なぜなら聖書の啓示的本質は、その文字列に内在しているのではなく、聖霊が啓示としての意味と力を言葉に満たすから」である。同様に、聖書の真理性は聖書言語の属性ではなく、それを通して語る聖霊の属性である。聖書の言葉を真理の言説に減じてはならず、御言葉は聖霊によって「生きていて」、御言葉を通して人は神と出会う。聖霊によって、聖書の言葉という器が用いられ、その中身であるキリストに仕えさせるのである(拙著、377-378頁)。

別にバルト神学を持ってこなくても、「聖霊(神)は聖書の言葉を用いて直接に語りかけ、働きかけてくる」とは、聖書信仰がしっかりと握ってきた考え方です。これこそが啓示の書である聖書の「神秘」であると、聖書信仰が考えてきました。たとえば、戦後、関西聖書神学校を設立し、きよめ派の指導者的存在の一人となった澤村五郎は、次のように述べています。御言葉を聞くとき、まず「聖霊の光によって心の真相を照らし出される」、「そうすれば心は全く砕かれて、信じやすい柔らかな心となるので、神のことばは、なるほどそうだと一つ一つ心の底から納得の行くように悟らせられる」。キリストの受肉、降誕、十字架の救い、復活、昇天、永遠の審判と永遠の栄光、これらすべて、「聖霊の啓示によらなければ、人の知恵や悟りでは絶対にわからないことである」。「真理のことばである聖書は、真理の霊である聖霊によってのみ、生ける神のことばとしてわれわれの心に働くのである。」(拙著、115-117頁)

澤村五郎は、バルト神学とは無関係です。しかし同時に、プリンストン神学とも関わりがありません。敬虔な福音主義の聖書信仰にあっては、このように「今」に働く聖霊の感動を抜きに、聖書の「神の言葉」性を語ることはありませんでした。かつて、霊感によって完成された啓示の書物であっても、その言葉を神の言葉として私たちに響かせるのは、同じ聖霊です。数千年も昔に、その時代の歴史的出来事・文化の中で聖書の記者を感動させた聖霊が、同じように今日の歴史的出来事・文化の中で神の声を聞こうとする私たちを感動させてくだる――これもまた、聖書信仰の主要な柱の一つだったのではないでしょうか。

先に触れた英国の聖書学者F・F・ブルースも、聖霊の働きを強調します。とても強い聖霊の今日的干渉がなければ、ユダヤ的背景にあった福音が、見事にその殻を破って異邦的土壌に根づくとはなかったであろう、と。二千年前と同様、福音が現代の世界中の異文化に根づくことを期待するなら、聖霊が全く異なる文化・時代に記された聖書の言葉を通して、今日のあらゆる境遇にある読者に神の声を響かせることを信じるべきだと言います。

聖霊こそが、①聖書の神の言葉としての永遠性・普遍性と、②その言葉が歴史性・文化性を帯びて記され、同じ限界を持つ私たちに今も語りかけることを保証してくれる、架け橋です。本論の最初に挙げた二つの命題の「ギャップ」を意識すればするほど、聖霊の働きの尊さがわかるように思います。

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Emmanuel

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