「永遠の命の言葉」ヨハネ6:60-71 中村吉基

ヨシュア記24:14−24;ヨハネによる福音書6:60-71

ヨシュア記24:14−24;ヨハネによる福音書6:60-71

今日の箇所は、ヨハネによる福音書6章の最後の部分になります。この6章の冒頭には、「5つのパンと2匹の魚」の話として知られているたいへん大勢の人たちが、主イエスに食べ物を与えられるという奇跡物語が記されています。主イエスはこの頃、どこへ行っても人々が押し寄せてくる、今でいう「追っかけ」とか「推し」でしょうか。それが「大勢の群衆が後を追った」(6:2)とあります。6章10節には男ばかりで5千人とありますから、女性たちや子どもたちなどを含めれば1万人を超える人たちが集まっていたことでしょう。どこに行ってもついてくる人たちに、もう主イエスや側近の弟子たちは疲れ果てていました。

一方で、この6章(新約174頁から)を貫くテーマは、主イエスが「天からのパン」ということが人々の話題に上っていたということです。主イエスが天からのパンであり、それを食べなければ命に与(あずか)ることが出来ないと言われました。「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」(60)と言うのです。主イエスが「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ」(53)と言われると人々は嫌悪感を抱き、また「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得(る)」(54)は、人々の共感を得る事はできませんでした。ヨハネ福音書はそこを冷静に伝えます。先ほど、6章の冒頭には、きっと1万人を超えるような「大勢の群衆」が主イエスの後を追いましたが、6章41節ではそれが「ユダヤ人たち」となり、そして今日の箇所6章60節以下では、もう弟子たち12人だけになっているのです(67)。主イエスが天からのパンであるということが当時の人たちに受け入れられない現実。この人はナザレの庶民の出ではないか、どうしてこの人の身体を食べられるのか、どうしてそれで永遠の命を得られるのか、という思いから、このことが語られた途端に、人々は一人また一人と主イエスのもとを去っていったのです。

これはひどい話だと、到底この人を信じることなどできないと、つい少し前までガリラヤ(ティベリアス)湖畔で現実のパンに満たされていた人たちが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と「多くの者」(60)がそう言ったと記されてあります。この言葉は他の福音書では伝えられていないのです。

信仰は神秘的なものであるといわれますが、私たちもまた私たちの理解を超えたところにある壁にぶつかることがあります。わからなくなることがあるのです。受難節を歩む私たちが、主に従うということは何であるか。それを考える機会としたいと思うのです。「わからない」「利益がない」そういう現実に即していないからということに気づいたから、そこを去っていく。主イエスに一生を賭けて信じ、従ってきた弟子たちにも、そして比較的最近主イエスの福音の教えに触れて歩みを起こした弟子たちも、主のもとを離れ去っていきました。これを見ていますと私たちにも同じような可能性があるといえます。

いわゆる「新宗教」の教祖と呼ばれる人の本を読んだことがあります。わずか1時間ほどでそれを読み終えてしまいました。私は決して本を読むのが早いほうではありませんが、内容の薄さというか、簡単に読めてしまったのです。世の中はインスタントな、簡単なものを求めている裏返しなのかもしれませんが、いかに教祖自身が素晴らしい霊感の持ち主であるとか、神の生まれ変わりとか、ひたすらに物品を買うことを勧めてみたり、ご利益を謳ったり、宗教建築の壮大さを誇示したり、果てには他の宗教の悪口まで書かれてあって、私はまともに読んだわけではないのですが、読み終える頃には辟易として、何か後味の悪さだけが残ったのです。

私たちは「信じる」という言葉を簡単に使います。信じるということの先にある素晴らしさにまだ気づいていないかもしれませんし、信じることがなぜ難しいのかという理由も突き詰めていないかもしれないのです。

イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。(61)

主イエスが人々にお話しになったことをめぐって、人々がどう信じてよいのか、また動揺することをよくご存知であったからこそ、「つまづくのか」とお話しになったのでした。主イエスの言葉には人間の知恵では計り知れないものや常識を超えた言葉がしばしば語られます。私たちもそうです。ずっと前から思い込んでいること、当たり前だと思っていることなどが覆される言葉を聞いた時、私たちは自分の耳を疑います。即座にそれを信じることができないのです。

ずっと主イエスを信じ続けていた人たちがつまずくことがあります。66節のところに「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」。この現実です。かつて彼らは熱心なまなざしで主イエスを追っていたはずなのです。彼らなりに信仰の決断をして歩みを起こして、信じ、従ってきたはずです。

日本の教会にもこれを同じ現実があります。洗礼の恵みに与っても3年以内には、もっと早いかもしれません。3か月で教会を離れ、信仰を棄ててしまう人たちが実にたくさんいるのです。私自身も牧師としてそう現実を経験してきました。なにも主イエスの教えだけが悪いのではないと思います。教会として、教会人として新しく信徒となられた方々へのつまずきになるようなことがあったかもしれません。配慮が足りなかったかもしれません。教会に連なる私たちは今日の箇所を通してもこのことに本腰を入れて検証してみる必要があると思います。

ある人は主イエスの優しい、あるいは厳格な声に乗せて語られる福音の教えに魅了されたのでしょう。またある人は主イエスの人柄に触れて歩みを起こしたのでしょう。ある人は、ローマ帝国に支配され、混乱したこの社会から主イエスが救ってくれるだろうと一縷の望みをかけていたかもしれません。信仰者となるにはそれぞれでどこかの時点で必ず決断があったはずなのです。

しかし今は違いました。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
彼らの信仰はもう粉々になってしまいました。以前私が仕えていた教会に信仰熱心な青年がいました。どんな時にも中心になって奉仕などをしてくれる人でした。しかし何かがこの人の信仰を棄てさせるようなことがありました。それが何かはいまだにわからないままです。その後何度か、街でこの青年に会いました。しかしこの人は目を背けるようにしてそそくさとその場を去っていきました。同じ主を信じる仲間として実に寂しい思いのする経験でした。昨日までの信仰の仲間が、もう言葉を交わすこともないのです。

しかし、今日の箇所を読むと十二人の弟子たちは主のもとに残りました。どうして残り続けたのかについて、ヨハネ福音書は記していません。でも十二人ひとりひとりに何らかの理由があるはずです。主イエスはこう言われました。67節「あなたがたも離れて行きたいか」。そこで一番弟子のシモン・ペトロがこう言いました。68節以下です。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

ペトロは、あの問題となった主イエスを「天からのパン」だと信じるか、信じないかということについては言及していません。しかし彼は自分の全存在、一切合切を「主に委ねます」という信仰告白をするのです。そして主イエスの方では、「あなたがたも離れていきたければ、無理に止めることはない」と言っているかのようです。

しかしペトロたち、少なくともペトロ自身は、と言ったほうがよいかもしれませんが、人々が離れていっても主についていきますという決意が見られるのです。このペトロが主が十字架で殺される前に、「わたしは知らない」と3度も主を否定したことをヨハネ福音書の記者たちも、私たちも知っているのです。そして今日の箇所の物語の結びは、この残った十二人の弟子たちの中に、主イエスを裏切るイスカリオテのユダが含まれていたということを告げて終わるのです。

今日私たちはこの礼拝の中で主の晩餐を記念して、聖餐を祝います。
カトリック教会では基本的に毎日ミサが行われていて、ミサの中心は聖餐(聖体拝領)です。そして一人一人がパンを受ける際にこのように信仰告白をします。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」と今日の箇所のペトロの言葉が引用されています。私はミサでこの信仰告白をするところに差し掛かると言い知れない感動を覚えます。とても美しいと思うのです。ここに集う私たちは、主に従う者たちであるのと同時に、主を裏切ってしまう傾きを持っている者たちだということを自覚しなければなりません。けれども主はそのような私たちをゆるし、永遠の命の糧が置かれた食卓に招いてくださるのです。一度だけではありません。これは永遠になのです。私たちの手の中にパンと杯の形を通してこられるキリストに感謝し、歓迎したいと思うのです。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。これに「アーメン」と言える者はさいわいです。

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