キリストの復活がなかったら

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・4・11

キリストの復活がなかったら

ヨブ記 19,23-27; 第一コリント 15,12-19

先週の復活主日に、私は、「キリストが三日目に復活したこと、ケファに現われ、その後12人に現れた」(5-6)という最古の伝承について語り、特に「現れた」という言い方について、それは「イエスの事柄が継続される」という意味であると述べた。

イエスの事柄とは、彼がその生涯を賭けて明らかにした事柄のことである。すなわち、悪が支配しているようにしか見えないこの世界に「神の国が来る」という福音である。神の真実の支配が確立する。真実が偽りに、生命が死に、そして光が闇に勝利する。必ずその時が来る。この福音こそ、イエスの生涯を賭けて明らかにした事柄であった。これはイエスの十字架上の死によっても終わりはしない。それは継続される。キリストが復活したということは、そういうことだ。

 

さて、今日の所ではそれを受けて議論が進められる。

「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった筈です」(13)とか、「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかった筈です」(16)という言い方が、私たちの目を引く。もしかしたらパウロはここで、「死人が甦ることがあり得る」という一般論から出発して、「だからキリストの復活もあり得る」という風に、幾分「形式論理的に」議論を展開しているのではないか。そういう印象を受ける人も多いであろう。

だが、それは違う。

「死者の復活」というのは、一般的に「死人が甦ることがあり得る」という意味ではなく、「キリストを信じて眠りについた人」(18)の復活のことだ、とある注解者は言う。

パウロ自身もそうだが、キリストへの信仰に生き、信仰を貫くために死んでいった人は多くいる。そういう人々は、そのまま滅びたのではない、というのだ。

パウロがまだサウロと名乗ってキリスト教徒の迫害に熱意を燃やしていた頃、ステファノという人物が殺される場面に立ち会ったことがある。彼は「恵みと力に満ちすばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(使徒言行録6,8)が、イエスと同じ理由で捕らえられ、イエスと同じように最高法院に引いて行かれ、そして、これまたイエスと同じように偽証人の告発に基づいて裁かれる。ただ、イエスが沈黙していたのに比べて、ステファノは堂々たる語り口で自らの信仰を告白し、大祭司や律法学者たちの過ちを恐れる所なく指摘した(同7,1-53)。

このことが激しい怒りを買い、イエスと同じように都の外に引きずり出されて、「石打ち」のリンチに遭う(7,54-58)。石を投げつけられながら、彼は「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈り(59)、それから膝まづいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と大声で叫び、「眠りについた」(60)。サウロ(パウロ)は、この一部始終を見ていた。この経験が、パウロの回心につながったことは確かである。

 

だから、パウロが「キリストを信じて眠りについた人」(18)と言った時、抽象的な観念をもてあそんでいたわけでは決してない。彼の目には、あのようにして死んで行ったステファノや、その他多くのキリスト教徒たちの姿が生き生きと浮かんでいた筈である。

あの人々は、真実に生きて、報われることもなく死んで行った。では、彼らは滅びてしまったのか?あれでお終いなのか?永遠に忘れられ、消えて行くのか?

私たちにも、「キリストを信じて眠りについた人」と言う他はない人々がいる。恩師・親友・家族。教会の中で出会った忘れ難い人たち。あの人たちは滅びてしまったのか?あれでお終いなのか?死者は永遠に消えて行くのか?

そんなことはない!

あの人たちの信仰・祈り・願い、あるいは、あの人たちが流した涙やあの人たちの幸せな微笑みは、継続している。他ならぬ私たちによって引き継がれている。あの人たちの事柄は継続する!このように、死者、つまり「キリストを信じて眠りについた人たち」は、復活するのである。

このことの根拠がキリストの復活にあることは、言うまでもない。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかった筈です」という言葉は、内容から見て、「キリストが復活した以上、キリストを信じて眠りについた人たちも復活しない筈はない」と言い換えることが許されよう。

キリストは復活した。弟子たちに現れた。彼の事柄は終わったのではない。継続される。弟子たちによって、彼を信じる人々によって、私たちによって継続される。2000年の教会史は、多くの間違いにもかかわらず、イエスの事柄が決して過去のものとなりはしなかったということの証しである。

それゆえに、キリストを信じて眠りについた人たちも復活する。彼らの信仰・祈り・喜び・涙は、私たちによって引き継がれる。

逆に、もしも「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(14)。また、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(17)。

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