イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(4)天的な希望の男女が平等なのはなぜか

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

   ヨハネです。聖書的に、天的な希望を持つ女性が天的な希望の兄弟たちの聖書の解釈に異議を唱え、聖書から論じることはエホバ神の目に許されることなのでしょうか。考えてみましょう。

  今回は、このことを(1)から(5)の論点で論じます。 この記事は、シリーズで、今、(1)から(4)まで出しています。「(1)統治体の権威に逆らうことはモーセの権威に逆らうことと同じですか」「(2)統治体が聖書の解釈で間違っている時どのように対応したらいいですか」「(3)大群衆が統治体の聖書の解釈の間違いを指摘するのは聖書的に正しいですか」も参照されてください。今後も、(5)と(6)のシリーズの続きを出すつもりです。

(1) 男女とも天的な希望の者たちは平等な立場に立つ 

 万が一、女性のクリスチャンが統治体の聖書の解釈の間違いに気付いたとしたら、どうしたらいいのでしょうか。聖霊で油そそがれたクリスチャンの女性が、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老の間違いを指摘することは、神の不興を受けますか。 

 聖書は、神の目に天的な希望を持つ男女が基本的に霊的に平等な立場に立つことを聖書は示しています。ガラテア書には、「ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由民もなく,男性も女性もありません。皆がキリスト・イエスと結ばれて一つになっている」とあります。(ガラテア3:28新世界訳改訂版) 

 ですから、国籍、社会的な立場、性別にかかわらず、天的な希望のイエスの弟子たちは、キリストの体の一部という点では同じ立場に立ちます。 

 そのことと調和して、啓示4章には、「王座の周りには24の座があり,24人の長老が座っていた。」と描写されています。(啓示4:4新世界訳改訂版) 「24人の長老」とは、「聖なる者たち」、すなわち男女でなる144000人の天的な希望の者たちを表しています。(啓示5:8新世界訳改訂版) 

 そして、「24人の長老」たちは、互いに上下に座っているのではなく、エホバ神とイエスの周りに、横並びで座っていることが啓示の書に示唆されています。 

 この状況はどの時点でそうなるのでしょうか。これは、彼らが天に行ってからの霊的な状態を表しているのでしょうか。 

 啓示5章には、エホバ神が子羊イエス・キリストに七つの封印の施された七つの巻物を渡すことが預言されています。(啓示5:1,7新世界訳改訂版) それは、この事物の体制が続いている期間中のことです。そして、啓示4章は、啓示5章と同じ時期か、それ以前のエホバ神の崇拝者の状況を描写しているはずです。 

 ですから、男女でなる「24人の長老」たちが霊的に平等な立場にあるのは、天に行ってからではなく、彼らがこの地上に人間として生きている間です。霊的には、神の目には、聖霊で油そそがれたクリスチャン男女とも平等な立場にあります。 

啓示の書によると天に行く希望を持つ男女は平等な立場にある 

 

(2)性別や長老であるかどうかよりも大切なのは神に忠実であること 

 なぜなら、エホバにとって一番重要なのは、忠実であることだからです。「家令に求められるのは,忠実であること」だと述べられています。(コリント第一4:2新世界訳改訂版)神に忠実であることは、男性か女性か、長老であるかどうかということよりも、神の目に大切なことです。 

 もちろん、会衆内で教える立場に立つことを求められているのは、主に長老であり、男性です。(テモテ第3:1,2。テトス1:6,9。コリント第一14:34新世界訳改訂版)しかしながら、神のみ前における霊的な立場としては、144000人 の場合、男女とも平等な立場に立ちます。(啓示7:4新世界訳改訂版) 

 そのために、天的な希望の女性が、天的な希望の男性に対して、イエスの権威に基づいて、聖書から論じるということも起こりうるでしょう。天的な希望の女性は、エホバ神とイエス・キリストに第一に従い、天的な希望の長老に相対的に従うからです。(使徒5:29。コリント第一11:3新世界訳改訂版) 

       

       男女の聖霊で油そそがれたクリスチャンはイエス・キリストに第一に従った 

  そして、(4)に述べるように一世紀にも、特定の聖霊で油そそがれたクリスチャン女性が会衆内で神の言葉を話す立場にたったことを聖書は示しています。

(3)以前の解釈と異なってしまったことの謝罪

 わたしは以前、女性も覆いをすれば、会衆内で教えることができるとこのブログの記事に、出したことがあったと思います。わたしは聖句を見落としていました。そして、女性が会衆内で発言することについて、総合的に考察した結果、(4)で述べることが正しいと現在では考えています。

 以前、わたしが申し上げたことに基づいて考えたり、行動していた方がいらしたら、申し訳ありませんでした。この考察は、女性のわたしにとっても、嬉しくもあり、残念な事でもあります。でも、わたしは、聖書の中にあることを、それが自分にとって、望ましいことであっても、そうでなくても、伝えなければならないと思います。

 証人は女性が会衆内で、コメントすることが習慣になっています。わたしは以前はそれはいい習慣ではないかと考えていたのですが、それは一考しなければならないのかもしれません。キリスト教会では、普通女性は主に学ぶ立場の聴衆になります。このやり方がより一層聖書的なのかもしれません。

 しかしながら、女性は家庭集会で、あるいは個人的な集まりで、自由に発言できると思います。女性が「家で」夫に「尋ねる」ことができると書かれていますから、聖書についての自分の理解を説明してもいいことになります。(コリント第一14:35新世界訳改訂版)

 

(4)天的な希望の女性が聖書に基づいて論じることは神の目に許されますか 

 天的な希望の女性がエホバの証人の統治体の聖書の解釈に、聖書に基づいて異議を唱えることがあるかもしれません。それは、神の目に許されることですか。そして、統治体の兄弟たちは、それに対してどのように対応するのが聖書的でしょうか。 

 一世紀のクリスチャン会衆の成員はほとんど天的な希望のクリスチャンであったと考えられます。そして、パウロは、パウロは、「女性は会衆の中では黙っていてください。話すことは許されていないからです。律法にもある通り,女性は男性に従ってください。」と述べています。 (コリント第一14:33,34新世界訳改訂版) 

 さらに、テモテ第一の手紙には、こうあります。「女性は全く従順に,静かに学ぶべきです。女性が教えたり男性に権威を振るったりすることを,私は許可しません。女性は静かにしているべきです。」(テモテ第一2:11,12新世界訳改訂版)ですから、一世紀に、天的な希望の女性は基本的に会衆内では、聴衆として学ぶ立場に立ちました。 

 しかし、フィリポの四人の娘が「女預言者」であったと記録されています。(使徒21:8,9新世界訳改訂版)では、フィリポの四人のクリスチャンの娘たちは、クリスチャン会衆外の「クリスチャンではない人々」に対して預言をしていたのでしょうか。 

 そうではありません。「預言は,クリスチャンではない人のためではなく,クリスチャンのためのものです。」とパウロは述べています。(コリント第一14:22新世界訳改訂版)パウロは、「皆さんが集まる時」、「預言者の場合は2人か3人が話し,ほかの人たちはその意味を理解するように努めてください。」と述べています。(コリント第一14:29新世界訳改訂版)

 それで、預言者は会衆内でクリスチャンを対象に話を行なっていました。このことから、フィリポの娘たちは、会衆内で預言を行なっていたことが考えられます。 

 さらに、女性が預言をしたり、祈りをする場合に、「覆い」をつけるようにという指示があります。 「一方,女性が祈ったり預言したりする時に頭を覆わないなら,自分の頭を辱めることになります。 」とあります。(コリント第一11:5新世界訳改訂版) 

 ですから、女性は会衆の集会で、クリスチャンたちを対象に預言をしていた時に、「覆い」をつけていたでしょう。女性が覆いをつける必要があるのは、クリスチャンでない人に預言をしている時ではなく、男女が含まれている会衆内で、男性の頭の権に敬意を表すためでしょう。 

 ですから、一世紀においても、天的な希望を持つ女性であっても、基本的に会衆内の集会では、男性から教えを受ける立場を保っていたと考えられます。しかしながら、これらの聖句を考慮すると、奇跡的に預言の賜物を与えられた天的な希望の女性が特例として、「覆い」によって男性の頭の権に敬意を表しながら、会衆内で他のクリスチャンに対して話していたと考えられます。     

一世紀のクリスチャン会衆内の集まりで一部の女預言者が覆いをして話しました   

 それで、この一世紀の事例を考えるならば、今日、天的な希望を持つことを表明している女性のクリスチャンの中でも、特別に聖書に関する知識がある場合、「覆い」をつけて、男性の頭の権に敬意を表明しつつ、教える業を行なうことは、聖書的に認められると思います。 

 しかしながら、一世紀においても、女預言者として認められていたのは、天的な希望のクリスチャン女性すべてではなく、その一部だったようです。なぜなら、フィリポの娘たちは、「女預言者」であったことが特記されているからです。(使徒21:8,9新世界訳改訂版)ですから、一世紀にすべての女性が「女預言者」だったわけではないようです。 

 コリント第一の手紙の中には、一世紀のクリスチャン会衆の中に、使徒、預言者、教える人、奇跡を行う人、癒やす能力を持つ人、人々を世話する人、指揮する能力がある人、さまざまな言語を話す人、通訳者がいたと記されています。そして、「皆が使徒ではないでしょう。皆が預言者ではないでしょう。」と述べられています。(コリント第一12:27-30新世界訳改訂版) 

 ですから、女預言者は、会衆内のすべての女性ではなく、一部の天的な希望を持つ女性でした。 

 しかし、今日誰を預言者とみなすことができるのでしょうか。今日、奇跡的な賜物が存在しないことを考えると、「女預言者」であるかどうかは自己申告によるしかないと考えられます。 

 それで、特定の天的な希望の女性が統治体の解釈の間違いを指摘する場合、天的な希望の統治体は、イエスの権威に従って、天的な希望の男性に対すると同じく、天的な希望の女性の聖書に基づく言葉を考量することが求められると思います。そして、その女性の言葉が、聖書的に正しいと考えるならば、それを受け入れるのが正しいことでしょう。 

 それは、その女性に従うということを意味するのではなく、聖霊で油そそがれた男性のクリスチャンが聖書に従って、エホバとイエス・キリストに従うことを意味します。(コリント第一11:3)油そそがれた者であったダビデが預言者ナタンの言葉に従ったのと同じです。ダビデは、立場としては自分より下にあった預言者の言葉に従って、エホバ神の言葉に従ったのです。 

(5)油そそがれたクリスチャンに敬意を払いながら聖書の正確な知識に基づいて論じる必要 

 しかしながら、多くのクリスチャンは、男女を問わず、普通は、自分の知識の範囲内で、聖書の神エホバとイエス・キリストに従いたいと考えています。それで、エホバの証人の統治体の兄弟たちも、ご自分たちの聖書の知識と理解の範囲内で、最善を尽くしてエホバ神とイエス・キリストに従っておられるでしょう。  

 エホバの証人の統治体の兄弟たちが、神の目に多くの良い事柄を成し遂げておられることを無視することはできません。統治体の兄弟たちが聖書から教える点で大きな働きをされていることは事実です。また、エホバの証人の統治体の兄弟たちは、聖書を読んで、聖書に従い神の律法に忠実であるよう、信者を励ましてくださっています。このことは、感謝されるべきことだと思います。 

 ですから、他の聖霊で油そそがれたクリスチャンも大群衆も、エホバの証人の統治体の兄弟たちが、やはり、聖霊で油そそがれたクリスチャンであることを認めて、自発的に協力し、敬意を払うことができます。 

   しかしながら、他の聖霊で油そそがれたクリスチャンたちやその他の人々は、エホバの証人の統治体の兄弟たちの間違いに気づく時、十分時間をかけて徹底的に「聖書から論じ」る必要があります。(使徒17:2,3新世界訳改訂版)それは、エホバ神とイエス・キリストの権威に従うためです。ですから、そうすることは神の目に正しいことです。

 ですから、聖書の正しい解釈は、統治体だけによってなされるのではなく、イエス・キリストの指導の下に、男女の聖霊で油そそがれたクリスチャンによってなされることになっているというのが聖書的に正しいと思います。 

 しかしながら、もし、天的な希望の人の聖書と調和した言葉が統治体から退けられたら、どうしたらいいでしょうか。次に考えます。

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