「百人隊長」というのは、百人の部下を持つ軍人のことである。旧日本軍の組織で言えば、「中隊長」といったところだろうか。カファルナウムに駐在するローマ軍の一員か、ユダヤの領主ヘロデ・アンテイパスの兵を束ねる将校であったのだろう。名前は分かっていない。友達をイエスのもとに送って「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではない」(6)と言わせている所からも明らかなように、異邦人である。
ルカが書いたもう一つの文書・使徒言行録には、コルネリウスという百人隊長の回心の話が出てくるが(10,1-33)、こちらは名前がはっきり分かっている。ローマ人であったらしい。
二人ともユダヤ人ではないが、ユダヤ教の信仰にかなり接近していたことがうかがえる。コルネリウスについては、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(2)といわれているし、ルカの百人隊長は、「ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」(5)と評価されて、ユダヤ人の長老たちからも信頼されるような人物であった。
ここで私は、この二人が軍人あるいは兵士であったことに注目したい。
この時代の兵士は、民衆にとっては決して歓迎すべき連中ではなかった。バプテスマのヨハネの所にやって来た兵士は(ルカ 3,7-14)、「徴税人」と同類の、いかがわしい存在と見なされている。何しろ、屈強の男たちが市民としての仕事があるわけでもなく、武器を持ってただそこらをうろうろしているのである。「自分の給料で満足せず、…金をゆすり取ったり、騙し取ったり」(3,14)するのは日常茶飯事であったろう。よほど軍規が厳正でなければ、略奪暴行は思いのままであった。
だから、初代教会は、キリスト教徒が選んではならない職業の中に、「売春婦」や「役者」と並んで「兵士」を挙げたし、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、「兵士もまた祝福され得るか」という論文を書いた。この背景には「兵士は祝福されない」という通念があったものと思われる。
百人隊長が、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」(6)と言わずにおれなかったのは、単に異邦人であるという理由によるのではなく、世間から疎まれる存在であるという「コンプレックス」を持っていたからではないか。ユダヤ人を愛して、会堂を建ててやったのも、このコンプレックスの裏返しではないか。
そう考えると、この百人隊長の姿が浮かび上がってくる。武器による力は持っているものの、心の深いところに抜きがたい劣等感があり、ユダヤの民衆に憎まれないように努力してはいるが、「自分は本当は尊敬されてもいないし、愛されてもいないのではないか」と感じている。だからといって、他に生きる道もない。この悲しみ。これが、当時の兵士たちの心情であり、彼らを束ねる百人隊長の姿ではないか。
さて今日の話は、「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから」(7,1)とあるように、「野の説教」(6,20-49)の内容と密接につながっている。そこでは、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々、憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられている人々は幸いだ、と言われていた。そして、「貧しい人々」というのは、これらの苦しんでいる人々の総称である。
ある注解者が、この百人隊長は「貧しい人の具体例」だと書いているのに、私は心を引かれた。「野の説教」のあの言葉は、単なる口先のお題目ではない。ここで今、百人隊長という具体例に即して、権威ある仕方で実現されるのである。
この「百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた」(2節)。ユダヤ人の長老たちに頼んでイエスを迎えようとする。イエスはその願いに応じてその家に向かうが、途中で別の使者が来て、「ご足労には及びません」と言う。「一言おっしゃって下さい」、それで十分です、と言うのである。その理由が面白い。
「わたしも権威の下に置かれているものですが」(8節)――これは、言葉を補えばこういう意味であろう。私も軍隊の命令系統の中におりまして、上の者の命令には従いますし、下の者は私のいかなる命令にも従います。私のような者でも、一言でも口から出せば、軍隊の中では私の言葉には権威があります。しかし、イエス様、あなたは天地万物を造り、歴史を支配し、苦しむ人々を愛し給う全能の神によってこの世に送られてきた方です。あなたは、神の権威によって、その中で生かされておられるのですから、あなたの語られる言葉には権威があります。あなたは、その権威ある言葉によって、これまでも嵐を静めたり、悪霊を追い出したりしてこられました。ですから、わざわざお出で頂かなくても、一言おっしゃって下されば、私の部下は癒されます。
イエスは、これこそ信仰であると言われた。イエスの言葉には権威がある。それを信じる。彼が「貧しい人々は幸いだ」と言われるなら、それは必ずその通りになる、と信じる。今苦しんでいる人々にも、やがて、神がよしと見給う時に、必ず神の真実の支配が訪れる、と彼が言うのなら、必ずその通りになる。それを信じる。これが百人隊長の信仰であった。私たちも、このような信仰によって生きるのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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