I
教会は、十字架にかけられて殺害されたナザレのイエスが、彼の生前の弟子たちを中心とする何人もの人間に「生ける者」として現れたという経験、いわゆるイースターの出来事をきっかけに成立しました。先ほどお読みした『フィリピの信徒への手紙』を書いたパウロもまた、そのようなキリスト顕現を直接に体験しています。しかもその出会いは、皆さんもご存知のように、彼が熱心なファリサイ派のユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害していた真っ最中のことでした。その時パウロは、「私はあなたが迫害している(ナザレ人)イエスである」という復活者の声を聞いた、と『使徒言行録』は記しています(使9,5; 22,8; 26,15)。パウロは生前のイエスに会ったことはありません。ですから彼は、迫害者としての経験を媒介にして、《神がイエスを死人たちの中から起こした》という復活信仰を共有するに至りました。十字架にかけられたイエス・キリストを通して、パウロにご自身を示した神は、死人に命を与え、無から存在者を呼び出し、ついには神無き者をその信仰によって義する、そのような神です。
II
さてそのパウロは、『フィリピの信徒への手紙』を獄中で書いています。彼は言います、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」 自分は牢屋につながれているのに、不思議な勧めです。それに「喜び」は、そもそも命令によって強制されるべきものではありません。なぜパウロは、繰り返し「喜べ、喜べ」と言うのでしょうか。
そのことを考える前に、一つの誤解を退けておきたいと思います。それは、パウロが繰り返し「喜べ、喜べ」と言うのは偽善的な現実逃避のジェスチャーに過ぎない、というものです。パウロは、この世界に見紛うことなく存在する幻滅や苦痛、差別や不正義を、自分や信徒たちの目の前から何とか覆い隠そうとして、「喜べ」と命じているのだ、というわけです。そうなのでしょうか? 私は違うと思います。
自分の弱さは棚上げにして神の栄光に酔いしれる、あるいは自分の弱さを神がカバーしてくれる、というような通常の宗教的あり方を、パウロは断固として退けます。むしろパウロは、《私の弱さは神の力の完全なかたちである》と言います。十字架にかけられたキリストの死の様に自らが等しくされてゆくことを通して、神の力である復活の命は、最も相応しい仕方でこの世界の中に働く、と考えるからです。これは偽善的というより、むしろ革命的な思想です。
さらにパウロは、今から見ればいろいろ批判されるべき点を多く含んでいるとはいえ、例えば貧富の差・奴隷制・男女差別といった社会問題を正面切って論じ、その都度、具体的な発言を行っています。しかもその際に、そうした判断を下す自分自身もまた、《律法の業によらず、信仰のみによって神の前に義とされる罪人》であることを忘れません。彼は、《私たちは土の器に宝を持っている》と言います。するとこの態度もまた、現実逃避というより、むしろ極めて現実的というべきでしょう。
ならば私たちは、自分たち自身をもっと問うてみるべきです。「喜べ」というパウロの言葉から気づかされるのは、私たちもまた、常に喜びの中にいるわけではない、ということではないでしょうか。善の実現と悪の根絶を目指した行動も、そこに喜びがないとき、真実な意味で良いものとは言えない、そのことを私たちは薄々ながら知っています。ベルト・ブレヒトの詩に次ぎのような一節があります。
「私たちは知っている。下劣さへの憎しみも、表情を歪ませる。不義への憤りも、ガラガラの怒鳴り声をつくる。ああ、私たちは、善意のための道備えをしたかったのに、自分の方で好意的であることができなかった。」
この言葉を読むと、同じようなジレンマが、家族や友人たちとの関係といったごく日常的なレベルに始まって、社会的な連帯を目指すボランティア活動などを経て、ついには政治的・軍事的な行動に至るまで、様々なかたちで経験されることに思い至ります。すると、パウロが繰り返し「喜べ、喜べ」と言う本当の理由は、私たちが自分で自分を喜びから切り離してしまいがちであること、一方では喜びの理由を絶えず見過ごし、他方では自分から喜びの理由を創り出そうとして絶えず失敗していること、そのことにあるのではないでしょうか。
なぜ私たちは喜べないのでしょうか? 「喜び」の本当の理由は、どこにあるのでしょう? どうすればそれをちゃんと受け止めることができるのでしょう? このような問いに、今日のテキストは幾つかのヒントを与えていると思います。四つほど申し上げます。
(1)先ずパウロは、「常に喜べ」と言って、「喜び」の場所を特定しています(4節)。「主において」というのは、《イエス・キリストの福音を信じることにおいて》というのとほぼ同じことでしょう。すると「喜び」の場所は、信じる者に救いをもたらす神の力が支配する場所です。それは、私たちが神の力に信頼するとき生じてくる不思議な力に溢れた空間です。「喜び」は、福音を信じることと相関関係にあるのです。
(2)次ぎにパウロは、「」と言っています(6節)。「思い煩うな」とはイエスの言葉でもありました(ルカ12,22以下参照)。私たちが喜びの中に住まうことができない理由は、思い煩いにありそうです。そしてよく考えてみると、「思い煩い」は、「苦しみ」や「悲しみ」そして「痛み」などより、もっと鋭く「喜び」と対立します。確かに「悲しみ」には「喜び」が欠けていますが、「喜び」と同様、他の人々と分かち合うことができます(ロマ12,15も参照)。創造者は、「人が一人でいるのはよくない」(創2,18)と言われました。これは、創造者が人間に与えた存在の根本条件です。私たち人間の真理は、私でない他者、「私」の中に決して解消されることのない他者との関係そのものです。ですから、私たちが誰かのことを心にとめて、あれこれと心配したり世話をしたりするとき、私たちは創造者から与えられた人間の根本条件を存分に生きているのです。
しかしこれに対して、「思い煩い」は人を他者との関係から切り離し、孤独にします。思い煩う者は、個人であれ集団であれ、自力で自分を再生産しようと無限に試み、そのために他の被造物を利用し、破壊し尽くして省みることがありません。他者を潜在的な競争相手として、あるいは自己実現の道具として認識するとき、私たちは事実上「思い煩い」に囚われている。「思い煩い」を通して働くこの破壊的な力を、パウロは「罪」と呼びました。「思い煩い」は「喜び」を破壊します。「思い煩い」は「喜び」の最大の敵なのです。
(3)第三に注目したいのは、「あなた方の広い心が知られるようにしなさい」、そして「主はすぐ近くにおられます。何事について、…求めているものを打ち明けなさい」という二つの勧めの言葉です(5-6節)。ここからは、パウロがキリスト者を、そしての中に置こうとしていることが分ります。
①《人との交わり》に関連して、ここで「広い心」と訳されている“エピエイケス”というギリシャ語は、「他者の尊厳を尊重し、それゆえに対話し、和解と合意に至る用意があることを具体的行動を通して示す」というほどの意味です。ですからそれは、強い者が弱い者に示す「度量の大きさ」とか、無関心と紙一重の「寛容さ」とは全く別物です。パウロは、喜びに生きるあなた方が発散する自然な親切さや善意、そして好意的な態度を、あなた方の周囲の人々が具体的に経験するに至るように、と言っているのです。
②次ぎに《神との交わり》に関連して、パウロは「主はすぐ近くにおられる」と言います。だから、思い煩わず、あなたたちの求めているものを祈りの中で神の前に差し出しなさい、と。「主は近い」とは、第一義的には人格的な関係の表現です。それは私に語りかける者の私への近さの表現です。私に向けられた他者の言葉は、私のものでないにも拘わらず、私の心にあり、私に近い。それと同じように、私たちに対する神の語りかけである主イエス・キリストは、私たちから発せられた言葉でないにも拘わらず、私たちに近い。否、私たちが自分自身に近いよりもさらに近い。神の語りかけは私に近い。だからこそ、私たちは自ら求める事柄を、神の前に差出すことができるし、またそうすべきなのです。
(4)最後にパウロは、喜びに生きる者の心と思いを「」が守るだろう、と言います。しかもこの平和は「人知を超えている」と(7節)。ここで「人知」と訳されている“ヌース”というギリシャ語は、「理性」とか「悟性」と訳してもよい言葉です。ですから「人知を超えた」と言うのは、説明のつかない怪奇現象や奇跡的幸運のことではなく、「理性より優れた」という意味です。神の平和は理性より優れている。なぜでしょうか?
理性は、神が私たちに与えた能力の一つです。しかしこの能力は、「思い煩い」にも、また「喜び」にも仕えることができる、という意味で決定的に両義的です。理性は私たちの能力ですから、私たちが「思い煩い」に絡め取られているとき、いくら理性の力を用いても、そこから自分を解放することはできません。これに対してパウロは、信仰の喜びは外側から、イエス・キリストの福音を聞くことから与えられるのだ、と言います。そしてそこから生きる者たちの心を「神の平和」が守る、と。私たちの心を罪の支配の浸入から警護し「心の安らぎ」を与えるのは、最終的には人間の理性ではなく、神なのです。これは考えてみれば当たり前のことですが、私たちはなかなかこのことに気がつきません。自分の力で安心を手に入れたい、と思うからです。
III
《主イエス・キリストにあって生きるとは「喜び」に生きることであり、その時初めて他者との関係・世界との関係は好意に満ちたものとなり、神に願い事を申し上げることもできるようになる。そして、その中に与えられる「人間理性よりも優れた神の平和」が、信じる者たちの心を守る。だからあなた方は主にあって喜びなさい。思い煩ってはダメだ》というパウロの勧めは、現代の私たちにとっても示唆に富んでいると思います。私たちが「思い煩い」から抜け出そうと理性的に「思い煩った」ところで、堂堂巡りに終わることは相変わらず明らかです。そして、世界に「苦しみ」「悲しみ」そして「痛み」を増し加えている最大の問題が、私たち自身であることも。
先日テレビで、国連の将来に関する報道番組を見ました。アメリカ国防省の人が出てきて、味方の物的・人的損失を最小限に押さえながら、敵に最大の損害を与えるのに今日最も有効な方法としてどんどん開発されているのが、情報収集とそれに基づく遠隔攻撃の技術だと説明していました。彼はとても得意げでしたが、新約聖書から見るとき、それは究極の理性的「思い煩い」に他なりません。ところが湾岸戦争に参加した一人の退役軍人が、次ぎのようなことを言いました。
「私は、偵察機から送られてくる赤外線映像のおかげで、どこから攻撃されているのかも分らず、逃げ惑いながら次々に倒れてゆく大勢のイラク軍兵士の姿を、手にとるように見ることができました。私は部隊の指揮官として、自分の部下を護るために、敵軍の兵士やその家族に大きな苦しみと悲しみを与えたことの責任があります。戦場に行ったイラク人の父親や息子や兄弟や友人たちは、多くは再び生きて家族や友人たちのもとに帰りませんでした。このことについて私は、神の前で申し開きをしなければならない時が来ると思っています。」
私はこれを聞いて驚き、胸を打たれました。彼の言葉は、武力紛争という具体的情況の過酷さと、敵軍の兵士たちの失われた尊厳への深い悲しみを、そのことに対する自分の直接的な責任を含めて、表現していました。しかし続いて登場した米国の国連代表者の発言を聞いて、私は何とも嫌な気持ちになりました。彼は、「アメリカは国際政治において自国の国益をこそ最優先すべきなのだ」と言ってのけたのです。何と言うことでしょうか! 先日いろいろな法案を通過させた私たちの政府は、この二番目のタイプで物を考える人々、自分の利益を最大化し損失を最小化することに「思い煩って」いる人々に歩調を合わせているのです!
IV
そうなのです。いくら私たちが、福音に基づいて、喜びから人間の生を解釈したところで、世界の現実経験を前にするとき、そうした解釈を貫き通すことは不可能に近い。私たちは常に死への不安と、死への欲望に取り囲まれています。私たち本来のあり方と実際の経験との間には、悲しいことに、大きな矛盾が横たわっています。それでも私たちにできる事が二つあると思います。
ひとつは、自分の頭の良さや体力や経済力その他を含めて、自らの能力に限界があることを率直に認めること、そして私たちがそのような不完全な者としてのみ、贈り物として与えられた被造界の中に置かれていることをよしとすることです。どうやって自分を救おうか、どうやって自力で善を創り出そうかと、からに閉じ篭って「思い煩う」とき、人は必ず自己破壊に向かいます。そしてそのとき、必ず周囲の世界を巻き添えにします。そのことに早く気づいて、言うなれば、朗らかに自分を諦めることが大切です。
もう一つは、何か絶対的な倫理モデルを作り上げ、世界を良くするには、まず自分たちが他の人々・他の被造物に対してアクティヴにならなければならない、という考えをきっぱり捨てることです。硬直した行動主義ほど盲目で、破壊的なものはありません。私のプログラムの正しさではなく、他者の尊厳を尊重することが必要です。それは他者を自分が働きかけるべき対象と見なすことを止めて、それとの距離を置くことです。他者を自分の「思い煩い」の食い物にしてはならない。たとえそれが私の敵であっても、知り尽くすことのできない神の被造物として生かしておくことです。
そういうわけで、神が人間に与えた根本条件と実際経験との間にあるギャップを持ちこたえるために私たちにできるのは、一つは自分の限界を認めること、もう一つは他者の尊厳を認めることです。自分の限界と他者の尊厳を認めることが可能になるのは、パウロによれば「主において」、すなわち《主イエス・キリストの福音への信仰》においてです。そしてこの信仰とは、《死人に命を与え、無から存在者を呼び出し、ついには神無き者をその信仰によって義する神への信仰》に他なりませんでした。私は、この信仰は「祈り」のかたちをとると思います。祈りの中で、私たちは自分の限界を認め、また他の被造物の尊厳を認めます。いや、認めざるを得ないというべきかも知れません。パウロが「感謝を込めて祈りと願いをささげつつ」神に求め事をしなさいと言うとき、それは、私たちの「思い煩い」は、信仰の中で、祈りへと変えられてゆくべきだ、という意味ではないでしょうか。
「思い煩い」が「祈り」に変えられて初めて、私たちは喜びに生きることができます。喜びの理由を心に受け止めることができるようになるのです。パウロが、今日お読みしたテキストに直ちに続けて、次ぎのように言う通りです。
「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心にとめなさい」(8節)
そうでありたい、と心から願います。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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