啓示17章-新・大娼婦が座る緋色の野獣は何を表わすか(15)大患難に携わる南の王に神の是認はない

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

(1)南の王が背教したクリスチャンたちを殺害することを神は是認されるのか

 南の王に加わって、聖なる者たちや預言者たちを殺害する者たちに神の是認があるのでしょうか。

 天的な希望を持つ者たちを滅ぼすことはとりわけ大きな罪になります。「もしだれかが神の神殿を滅ぼすなら,神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその[神殿]なのです。」とあります。(コリント第一3:17)神殿とは、天的な希望を持つクリスチャンを意味しています。天的な希望を抱くクリスチャンは生涯の最後まで、神に忠実を保つ必要があります。

 忠実な神殿クラス、つまり、神の王国に入る希望を抱くクリスチャンを滅ぼすならば、その殺人者を神は滅ぼされると述べられています。しかし、聖なる者たちや預言者たちも背教することがあります。背教して神に不忠実になった神の王国に入る希望を抱くクリスチャンは殺害しても神の不興を買うことはないのでしょうか。

 とりわけ、啓示13章に登場する二人の証人は、預言者たちということができますが、彼らは背教しているようです。しかし、聖書は例え、聖なる者たちや預言者たちが背教していても、つまり、神の律法に違反していても、その命を奪うことは神に是認されないことを示しています。

 聖書の中には、ダビデが背教していたサウロに対する殺害も是認しなかったこと、サウロを殺害したと言った若者を処刑したことが記されています。(サムエル第一1:13-16)ですから、「エホバの油そそがれた者」を殺害することは、例え背教していてもエホバ神に是認されない事のようです。

 それで、ローマカトリック教会の国の中やギリシャ正教会の中には、最初にサウルが神に是認されていた状態で油そそがれたように、神の律法に忠実な状態で聖霊で油そそがれた者が存在するのだと考えられます。

 そして、そのような人々が後に背教して、武器を持って戦うことを受け入れたとしたら、そのクリスチャンは背教したクリスチャンですが、それでも、そのクリスチャンを殺害することは神の是認されることではないでしょう。すると、そのように油そそがれたクリスチャンを殺した者たちを処刑する正当な根拠が、与えられることになるのかもしれません。

 実際に、神に信仰を抱く忠実なクリスチャンに神は保護を与えるという事を約束されています。しかし、神に忠実を保つクリスチャンが絶対に殉教しないというわけではありません。彼らも信仰のために、命を落とす危険があります。実際、最終的には、神に忠実なクリスチャンの殉教者の数が多くなることを聖書は示しています。

 しかし、やはり、神やその律法に不忠実なクリスチャンの方が死亡率は高くなるでしょう。そして、神に忠実なクリスチャンの場合はその死亡率は低いものとなるでしょう。エホバ神はご自分に信仰を抱く忠実な者たちには、保護を与えると約束されているからです。

(2)啓示の書にあるバビロンに二倍を返せと言う復しゅうの叫び

 啓示の書には、確かに、「彼女(バビロン)の罪は重なり加わって天に達」することになり、バビロンに対して、「二倍」を「返し」なさいと言う叫びが上がることが記されています。(啓示18:5,6)さらに、確かに神の民は、大娼婦バビロンの裁きを行なって神の奴隷たちの血が流されたことに復しゅうが行われたことで神が真実で義なる裁きを与えられたと最終的に感謝することになっています。(啓示19:2)

 しかしながら、バビロンに対する最終的な直接攻撃に加わる緋色の野獣に属する北の王とその同盟軍の者たちは復活の希望がなく永遠の滅びを受けることになるようです。(啓示13:8)ですから、私としては、バビロンに裁きを執行する者たちは神の不興を被るので、そのようなことを行なうように勧めることは愛がないのでできないと感じます。

  それで、その復しゅうを行なうようにという叫びは、背教したクリスチャンから発せられるのだろうかとさえ思います。しかし、確かに昔神に忠実な預言者が神の神殿に対する破壊行為に対する復しゅうが行われることを予告する箇所があります。(エレミヤ51:11)

 ですから、やはり、神の目に正しい事でしょう。そして、そのような復しゅうを叫び求める叫びが上がることになるのでしょう。しかし、それはどのような動機で勧めることができるのか私には分かりません。しかし、殺された者たちが公正を求める声が上がるのでしょう。

 しかしながら、クリスチャン自体は、この復しゅうの行為に決して携わりません。クリスチャンはキリストの律法に縛られており、自身で殺人や人の血を流すこと、剣つまり武器をとって戦うことは許されていないからです。ですから、クリスチャンは大患難が生じる時、山に疎開して、戦闘を避けます。それで、山に逃れるよう懸命に進める油そそがれたクリスチャンが存在するでしょう。

 ただ、誰かが、北の王の軍勢に対して、復しゅうをするよう叫ぶ油そそがれたクリスチャンが存在することになるようです。しかし、このことをどのような聖書的な根拠で語ることになるのか、私はさらに聖書を検討していきたいと思います

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help