神の国の祝宴

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「神の国の祝宴」

村椿 嘉信
エレミヤ書31,10-14;

テキスト(旧約):エレミヤ書31,10-14

諸国の民よ、主の言葉を聞け。
遠くの島々に告げ知らせて言え。
「イスラエルを散らした方は彼を集め
羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」
主はヤコブを解き放ち
彼にまさって強い者の手から贖われる。
彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て
主の恵みに向かって流れをなして来る。
彼らは穀物、酒、オリーブ油
羊、牛を受け
その魂は潤う園のようになり
再び衰えることはない
そのとき、おとめは喜び祝って踊り
若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え
彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。
祭司の命を髄をもって潤し
わたしの民を良い物で飽かせると
主は言われる。

テキスト(新約):ルカによる福音書14,15-24

食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

神の国の祝宴(たとえ)

 神の国の祝宴についてのたとえ話をお読みしました。

 15節に、イエスとともに食事をしていた客の一人が、イエスの話を聞きながら「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と語りました。客の一人がなぜこのような問いを投げかけたのかは、前後関係を読んでもはっきりしません。前後関係が内容的につながらないために、この部分は、ルカが前後をつなぐために作文した「つなぎの句」だと指摘する人もいます。前の部分のつながりというより、イエスと食卓をともにしながら、ふと、「神の国でこのような食卓を囲むことができたら、なんと幸いなことか」と感じたのかもしれません。いずれにせよ、この言葉を聞いて、イエスはたとえ話を始めました。

 このたとえ話とよく似た話が、マタイによる福音書22章1節以下にも記されています。しかし細部はかなり異なります。そもそも別の話であったのではないかと考える人もいます。私は今朝は、ルカのこの箇所に集中したいと思います。

 16節以下を読んでいきます。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き」ました。いよいよ「宴会の時刻になったので、その主人は僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせ」ました(17節)。

 「すると皆、次々に断り」ました(18節)。

 すでに招きを受けた人たとは、なぜ断ったのでしょうか。17節後半以下を節を追って見ていきますとこうあります。

 「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言い」ました。

 「ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言」いました。

 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言いました。

 宴会に招かれていたのに、彼らは断りました。畑を買ったから、牛を買ったから‥‥というのは、仕事上のことと言えます。また妻を迎えたばかり‥‥というのは個人的なことと言えます。彼らは仕事上の都合、個人的な都合を優先させ、宴会への招きを断りました。

 「(そのことを聞いた)僕は帰って、このことを主人に報告し」ました。すると、「家の主人は怒って、僕に言い」ました。「『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』。

 しかし予定していた人たちがこなかったので、しばらくして「僕は、(主人に)『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言」いました。すると主人はこう言いました。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」。

 

<広場や路地>、そして<街道、小道>

 さて、このたとえ話の中で、僕は、最初は「町の広場や路地」で「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を宴会へと招きました。イエスが、悔い改めて積極的にイエスに従おうとする人たちばかりでなく、社会的弱者、つまり実際に町での生活の中で取り残され、見捨てられた人たちを配慮したことは知られています。イエスはそういう人たちの神の国の祝宴に招かれると判断し、たとえのこの部分を語ったと思われます。でもその人たちも宴会へやってきませんでした。ここで僕は「まだ席があります」と語っているので、決して一人も来なかったということではなく、かなりの数の人たちがやってきたのだと理解できます。でもまだ席は残っていました。

 そこで主人は、今度は「通りや小道に出ていき、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言いました。最初は「町の広場や路地」でした。次は、「通りや小道」でした。同じ場所から人を連れてきたというのであれば、たとえのこの部分は何の意味もないということになります。日本語訳がよくないと私は思います。僕は、最初は「町の中でも中心的な広場や、町の中に張り巡らされている路地」から人を集めましが、二度目には、そういうところからではなく、もっと別の場所から人を連れてきたのであり、そのことがよくわかるように、この部分を翻訳すべきだと思います。 ここであげられているのは、町の中に張り巡らされている路地ではなく、「町の外にあり町と町を結ぶ一般的な街道」、そして「日本でいえば田んぼの周辺のあぜ道」、あるいは「人が通るたびに足で踏み固められただけの(整備されていない)小道」です。

 すると私たちはこのたとえをこう理解できます。この主人は、まずは招待しておいたはずの人たちを招こうとしました、次に町の中の社会的弱者を招こうとしました、しかしそれでもなお席が残っていたので、最後に町の中に受け入れてもらえない人たち、最底辺に生きる人たち、大多数の人たちから見捨てられたごく少数の人たち、あるいは異邦人を招いたのです。

 

 イエスは誰を招いたのか

 イエスはこのたとえで、神の国の祝宴に誰が招かれていると言おうとしたのでしょうか。このたとえ話の最後の部分に、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」という言葉があります。ルカの他の言い回しを思い起こしつつこの最後の言葉から考えようとすると、最初に招かれたのはユダヤ教徒であって、しかし彼らはイエスの招きに応じなかったために、キリスト教徒が招かれたと理解することもできます。しかし、3度目に招かれた人たちがいることを考えると、ユダヤ教徒が神の国の祝宴にあずかることを断ったために、キリスト教徒が招かれたという説明には無理があります。この最後の部分で、「主人は、無理にでも人々を連れてきなさい」と語ったとしるされています。悔い改め、神の国にふさわしく歩んでいる人、あるいは歩もうとしている人ではなく、どんな人でも、無理に連れてきなさいというのですから、この人たちをキリスト教徒のことだと見なすことはやはり不可能です。

 「無理にでも」という言葉は、熱心な仏教徒やイスラム教徒を、強制的につれてきなさいという意味では決してありません。その当時、町の外で、住居も定まらずに暮らす人々といういのは、みずからの意志でそうしたのではありません。現代で言えば、家を失い、故郷を失い、難民キャンプでかろうじて生きる人たち、あるいはどう歩むべきなのか、何をしたらよいのか、考えることもできずに、たたずんでいる人たち、生きようという意欲を失ってしまった人たちを、無条件で、いやむしろ積極的に手をさしのべて、神の国の祝宴に招きなさいというのが、イエスの語ろうとしたことではないかと私は考えます。

 しかしイエスは直接的にそうは語ってはいません。今日とりあげた箇所は、たとえ話の一つです。たとえ話の解釈は、私たち一人ひとりに委ねられています。

 でも解釈が委ねられているといっても、ここではっきりとしたことが語られています。最初に招かれた人たちが、神の国の祝宴に参加することになるとは限らないということです。また、最初に招かれていなかったのに、神の国の祝宴に参加することになるという人たちもいるということです。そして神さまが、苦しみや悲しみの中にある人たち、困難な状況の中に生きるあらゆる人たちを無理にでも神の国の祝宴に招こうとしておられるということです。いくら解釈がゆだねられているといっても、このたとえ話の基本的な構造や内容を変えていいということではありません。

 神さまの招きがこういうものであることを理解しながら、私たちが今、置かれている状況の中でこのたとえ話を私たちなりに理解することができます。私たちは、すでに教会に招かれているのですから、その私たちが招きに応じて、神の国の祝宴にあずかるがどうかが問われています。また神の国の祝宴には、多くの困難な状況に立たされている人たちが招かれているということを知らなければなりません。それどころか、私たちが普段、忘れているような人たちや、まさかこんな人たちが招かれるはずがないと思う人たちも招かれています。そのことを覚え、私たちも周囲のさまざまな人たちに、もしかすると私たちが忘れてしまっている人たちにも手をさしのべ、ともに神の国の祝宴にあずかることを求めつつ歩みましょう。

祈ります。

神さま、あなたは実にあらゆる人たちをみ国の祝宴へと招いてくださいます。
あなたの招きに応じることができますように。
どうか、私たちを「あなたの招きに応じるにふさわしい者」としてください。
あなたが、苦しみの中にある人たちを無理にでもみ国の祝宴に招いてくださる方であることを知り、感謝します。
どうかみ心が行われますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン
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Emmanuel

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