「あなたの罪は赦された」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・9・5

「あなたの罪は赦された」

村上 伸
イザヤ書 30,18-19;ルカによる福音書 7,36-50

 

今日の話は大変印象深い。この町に一人の「罪深い女」がいて、「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(37-38)。

大変官能的な描写である。若い頃、この個所を読むと、いつも胸がドキドキしたものだ。多くの注解書は、「罪深い女」とは娼婦のことだ、と書いている。一連の仕草が艶めいて感じられるのは、そのせいもあるであろう。

 

だが、もっと印象的なのは、イエスの態度である。

彼はこの女性のいささか官能的な接触を避けなかった。ファリサイ派の人がこれを見て、恐らく眉を顰めたり首を振ったりしながら、吐き出すような口調で、

「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはず だ。罪深い女なのに」(39)と言ったのは、イエスが余りに平然としていることに衝撃を受けたためだろう。

ファリサイ派の人たちにとっては、こういう仕方で「罪深い女」に触られることは、それ自体スキャンダルであった。それは、その女性の汚れに染まることであり、罪に同化することに他ならない。それは、断固として避けなければならないことであった。「ファリサイ」という呼び名が、もともと「区別された」という意味を持つことからも分かるように、彼らは「自分たちはこんな人たちとは違う。自分たちはこんな連中とつき合いはない。自分たちは彼らとは違って清く正しい生活を信条としている者たちだ!」――このように、彼らの態度は、一貫して拒否的であった。

彼らがイエスに対して反感を持っていたのは、そのことと関係がある。直前の34節に、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」とある。当時、特にファリサイ派の人たちの間では、イエスに関してこのような評判がかなり広まっていたのだろう。「イエスという男は、どうもあの汚らわしい連中に対して同情的すぎるのではないか。それは、あの男自身がいかがわしい人間だからではないか」。

ところがイエス自身は、このような評判を少しも気にかけず、平気で徴税人や罪人と一緒に食べたり飲んだりしていた。今日の場面も、その具体的な現われである。彼は黙ってこの女性を受け入れている。少しも拒否的な所がない。今日のテキストの中心はそこにある、と私は思う。

41節以下で、イエスは「借金のたとえ」を語ったことになっているが、これにはいささか取って付けたような感じがある。ラビたちの論理を応用してルカが付け加えたのかもしれない。正直に言って、私は余り心を動かされない。

私が深く心を動かされるのは、イエスがこの女性に対して少しも拒否的でなかった、という点である。この一点に絞って、今日は考えたい。

 

彼女は、その町では「罪深い女」として隠れもない存在であった。具体的に何をしていたかは、ここには書かれていない。「娼婦」だったというが、これもはっきりそう書いてあるわけではない。しかし、町中で「罪深い女」として知られていた。

「罪深い女」というのは厳密な定義ではなく、いわば「社会に流布されている通念」のようなものであった。少しはふしだらな生活もしていたであろう。「風俗営業」みたいなこともやっていたかもしれない。だが、それ以上に、既に町中の評判が彼女を「罪深い女」として決め付けていた。

先日、フィレンツエとベネツイアのルネッサンス絵画展を見に行った。「目玉」の一つは、テイツイアーノの「悔悛するマグダラのマリア」という作品である。豊満な肉体をしどけない衣で包んだ女性の像だ。多分聖書であろう、一冊の本が開いてあり、その前で彼女は胸に手を当てて、真っ赤に泣き腫らした目を天に向けている。一度見たら忘れられない。だが、この絵の中にも、私は「社会の目」を感じた。周りが決め付けているのである。ルカの「罪深い女」も、同じだ。

アン・ビョンム先生は、福音書で「罪人」といわれている人の多くは、貧しさのために律法で決められている通りの生活(犠牲・献金・施し・安息日)を送ることができず、周囲から「あいつは律法に従わない罪人だ」と決め付けられた人々のことだ、という。彼らは、町じゅうからそのように決めつけられているために、身の置き場がない。

だが、イエスはこの人たちを受け入れた。彼は自分の評判が傷つくのを承知の上で、「罪人」の仲間となった。一緒に歩き回り、その人たちと肩を組んで談笑し、一緒に飲んだり食べたりした。その人たちに病気があれば平気で患部に触って祈った。ルカの「罪深い女」が入ってきて、ファリサイ派の人たちが目を三角にするような仕方でイエスの足に触れた時も、彼はそれを受け入れた。そして、世間の誰もが「あいつは罪人だ」といって避けたり拒否したりしているのに、イエスは「あなたの罪は赦された」と宣言するのである。これがイエスの解放の福音である!

そしてこの背後には、罪人と一緒に十字架に付けられることも厭わなかったイエスの姿勢があることは、明らかである。



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