「神の小羊」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 このヨハネは、福音書の著者ではない。イエスの先駆者としてどの福音書にも登場する「洗礼者ヨハネ」である。この人物は、「神から遣わされて」(6)、「光について証しをするために来た」(7)と言われている。彼は「光ではなく、光について証しをするために来た」(8)。むろん、「光」とは主イエスのことである。

だから、彼は一切の自己顕示欲とは無縁であった。自分に注目を集めるのではなく、ただイエス・キリストを指し示すのが自分の生涯の務めであると思い定めていた。このことは「洗礼者ヨハネの証し」という個所にも明らかだ。彼は、自分がメシアでも預言者エリヤの再来でもなく、「後から来られる方」、つまり、光であるイエス・キリストの「道備えをする者」(23)だという。道であり・真理である主イエスを「指し示す者」に過ぎない。ヨハネはこのことをはっきりと自覚していた。だから、その方の「履き物のひもを解く資格もない」(27)と言う。この点でヨハネは我々の模範である。

さて、イエスが自分の方へ来られるのを見て、ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29)と証ししたという。ここに至って、これまで「光について証しをする」といった抽象的な表現で言われていたことの内容が、完全に明らかになる。ヨハネが渾身の力を込めて証ししたいと思ったのは、このことに他ならない。すなわち、イエスこそは「世の罪を取り除く神の小羊」なのだ!

15世紀のドイツの画家マテイアス・グリューネヴァルトは、あの有名な十字架の絵 (スライドを見せる)の中で、苦悶の表情で死んだ主イエスの傍らにこの洗礼者ヨハネを立たせている。彼は、一度見たら忘れられないような印象的な指の形で十字架上のイエスの苦しみを指さし、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ 3,30)と語っている。これは三日目の復活を暗示するものであろうか。そして彼の足元には、小さな肩に十字架をかついだ小羊が描かれている。胸から血を滴らせ、その血は聖餐式用の杯に注がれる。この小羊は、言うまでもなくイエス・キリストの象徴である。一見しただけで、今日のテキストに基づいて描かれたことが分かる。

この「小羊」のイメージは、突然ここに出てきたのではない。イスラエル民族の歴史に基づいている。今日読んだ旧約聖書のテキストは出エジプト記12章だが、そこには「主の過越」の故事が記されている。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエル民族がモーセによって解放された時の話である。

モーセは、民族を解放するために、さまざまな手段を用いてエジプトの王と交渉するが一向に埒があかない。そこで、神が初子を撃つという最後の手段が取られる。

(出エジプト記12章3-8、11-13)

その際、傷のない一歳の雄の小羊を殺し、その血を家の入り口の鴨居に塗っておけば、神の裁きはその家を「過ぎ越し」、初子が殺されるという災いはその家には及ばない、というのである。

イスラエル民族はこの神の示しに従って行動し、遂にエジプトにおける奴隷の境遇から解放されて「乳と蜜の流れる地」に向かう。それ以来毎年、この頃に「過ぎ越しの祭」を祝うのがしきたりになったというのが、イスラエル民族の言い伝えだ。

これには歴史的背景があって、学者たちはいろいろと批判的に分析する。ここに書いてある通りではないらしいが、今はそれにこだわらない。

我々にとって大事なことは、ヨハネが、この民族的伝統を念頭に置きながら、イエスこそは「世の罪を取り除く神の小羊」だ、と言っていることの意味である。

過ぎ越しの時、「傷のない一歳の雄の小羊」が殺され、その血によって、希望のない状態にあった人々の命が救われたように、イエスが自らの血を流して下さったお陰で、我々は罪と死の支配から解放されて生かされる。しかもイエスは、過ぎ越しの祭の頃に殺された。いわゆる「最後の晩餐」は、「過ぎ越しの食事」であった。ヨハネはそのことを言いたかったのであろう。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。

ただ、出エジプトの時の過ぎ越しと、福音書が描く過ぎ越しとは決定的に違う。出エジプト記の「過ぎ越し」の時は、イスラエル民族を救うために、エジプト人の初子がことごとく殺された。旧約聖書の中には、神に選ばれた「民族の大義」を優先させる余り、子供を犠牲にすることも認めるようなところがあるが、このようなことは、イエスの過ぎ越しの思想と実践の中には入ってくる筈がないのである。イエスは生まれた時、ヘロデ大王の幼児虐殺の手を危うく逃れて難民となった人物である。「幼子を殺す」などということは、彼の思想の中では、いかなる理由付けをもってしても、決して正当化されない。

幼児でなくとも、子供を失うということほど親にとって悲しいことはない。親しい友人が昨夜、長男が交通事故で急死したと伝えてきた。何と言っていいか、言葉もない。このような悲しみを、イエスの父である神が本心から望む筈があるだろうか。

弟子たちと共に祝った「過ぎ越しの食事」の時、イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)と教えた。

これこそ、彼の過ぎ越しなのである。そのために命を与えたイエス! 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。


 
 

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