先々週、「愚かな金持ち」(16節以下)について考えた。この男は突然の大豊作に喜んで自分の将来の人生設計をした。今までの「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまう」(18)という計画である。これは、別に悪いことではない。イエスも、例えば14,28以下では、行き当たりばったりの無計画な生活ではなくて、むしろ計画的であることを推奨している。人生には、矢張り計画・展望・見通しといったものが必要である。
「愚かな金持ち」の話で、イエスが「愚か」と言ったのは、計画性のことではなく、「金や物がたっぷりあるから、もう安心だ」と、それだけで気を許してしまった浅はかな人生態度のことである。
言うまでもなく、我々が生きて行くためには、ある程度の計画・展望・見通しが不可欠である。だが同時に、我々の生活はいつも自分たちの計画通りには行くものではない、ということも我々には分かっている。
そもそも我々の命からして、自分の思う通りにはできない。先週のテキストに、「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(25)とあった通りだ。突然、病気になったりすることがあるし、思いがけなく早く人生の終わりが来ることもある。
この点では、ヤコブの手紙 4,13以下が重要と思われる。
「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧に過ぎません」(14)。
こう言われているように、我々の人生は必ずしも自分の計画通りには運ばない。せっかく計画を立てても、何かの事情で実行不可能になることがある。前述したように、突然、病気になったりすることも、思いがけず早く人生の終わりが来ることもある。我々の命は、初めからそのような不確定要素を内に含んでいる。確かに「明日のことは分からない」のだ。だから、何でも「自分の計画通りになる」と考えたりするのは、「誇り高ぶり」である、とヤコブは言う(16)。
それでは、無計画で成り行き任せの生き方(「なるようにしかならない!」)が良いのかと言えば、彼はそうも言わない。「明日のことは分からない」というのは、単に不確定だという否定的な意味だけではない。「我々の命は神の手の内にあるが故に、我々人間には分からない」、という意味でもある。だから、あなたがたはむしろ、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきだ、とヤコブは教えている。
「明日のことは分からない」・「主の御心であれば…あのことやこのことをしよう」という二つの要素が人生にはあり、その間の緊張の中に身を置いて生きることが我々の人生ではないか。そしてこれが、今日のテキストを理解するための前提である。
さて、我々は自分の意志や計画だけで生きているわけではない。我々を超越した大いなる方の計画が、つまり神の意志が、この世界のあらゆる事象の、従って我々の命の根底にある。その方の意志によって我々は命を与えられ、そして再び命を取り去られるのも、その方のより高い計画による。我々の人生は、この大いなる方との関わりの中で営まれていく。これが、聖書の人生観である。ヤコブが「主の御心であれば…あのことやこのことをしよう」と言うのは、そういうことだ。
今日の個所に、「主人が婚宴から帰って来て戸をたたく」(36)とあり、また、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」(38)とある。さらに、「泥棒がいつやって来るか」(39)という表現もある。さらに、「人の子は思いがけない時に来る」(40)とも言われている。
こういう考え方を、普通、「終末論」と読んでいるが、いずれにせよ、思いがけない時に、思いがけない形で神は我々の生活に中に入って来る。その時には、我々はそれまでの自分たちの生き方を厳しく問われることになるだろう。だから、我々は「目を覚ましている」べきだ、とイエスは言う。
神が我々の生活の中に入ってくる。それが「いつか」は分からない。「どういう形で起こるか」ということも、我々には前以て知らされていない。自分の突然の死という形かもしれないし、世界の終末ということかもしれない。あるいは、自分では隠しおおせたと思っていた罪が暴かれる、ということであるかもしれない。
先ほど、出エジプト記 12,1-14を読んだ。
イスラエル民族が奴隷として苦しめられていたエジプトから解放される。その最後の晩に、「主の過越」という不思議な出来事が起こる。そのことについて書いてある。それは夜である。神の介入は、人が通常ならば寝静まっている夜に起こる。だから、イスラエルの人々は目を覚ましていなければならない。「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし」(11)、食事も急いで取るように命じられた。
今日の個所に、「腰に帯を締め、灯火を点していなさい」(35)とか、「目を覚ましていなさい」(37)と言われているのは、そのことと関連しているのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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