日本二十六聖人の殉教
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
1957年(慶長元年)2月5日、長崎の西坂の丘で外人宣教師名、日本人信者20名が十字架で処刑されるという事件が起きました。この殉教者たちを、日本二十六聖人と呼んでいます。今から415年前、時は豊臣秀吉の天下でした。この事件がおきる48年前にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が初めて日本に伝えられました。秀吉は最初、南蛮貿易の益も考え、キリスト教に対する大きな迫害は起こしていませんでしたが、159年のサン=フェリペ号事件をきっかけに迫害が強まり、禁教令を公布し、みせしめの為に2人を捕らえ、処刑するように命じました。24人のキリスト教信者は捕らえられ、京都・堀川通り一条戻り橋で耳を切り落とされ(秀吉の命礼は耳と鼻をそぎ落とす事との事)、裸足のまま、厳冬の道を京都から長崎まで縄で縛られ、引き回されました。その中には12歳になるルドビコ・茨木がいました。この少年は都の修道院で宣教師に仕え、病人たちの世話に励んでいました。父のパウロ・茨木は、尾張で桶屋を営んでいたと伝えられています。いずれにしても、ルドビコの信仰は父ゆずりで、サンフェリッペ号が漂着した年に洗礼を受けたばかりの新米少年キリシタンだったのです。はじめ秀吉は、宣教師はもちろん、国内のすべてのキリシタンを処刑するように命じましたが、いざキリシタンの名簿を作り始めると、キリシタンの多さに驚きました。(キリシタン人口は30万人を越えていたと言われています)秀吉は、石田三成らの説得で、宣教師と日本人の信者を何人か捕らえて処刑、他の信者たちへの見せしめとすることにしたのです。宣教師たちが次々と引き立てられていくなか、ルドビコは宣教師を慕い、どんなに役人にたたかれても離れようとしなかった為、根負けした役人は、ルドビコもいっしょに捕らえ、牢に押し込めました長崎までの道のりもルドビコはいつも快活さを失っていませんでした。いっしょに処刑されたブランコ宣教師が、道中、密かに友人にあてた手紙の中に、ルドビコの明るい姿に、同行の25人は何度も心を慰められ、力を与えられたと綴っています。また若いルドビコを憐れんだ役人が、「信仰を捨てれば命を助けてやる」と言ったところ、「つかの間の命と永遠の命を取り替えるわけにはいきません」とはね返し、役人を驚かせました。 長い旅も終わり、殉教の地、長崎へ到着すると、西坂の丘に、2本の十字架が立てられていました(1本ごとに名前が記されていました)。ルビルコは「アレがおまえの十字架だ」と役人が指差すやいなや、走りよってその十字架に抱きついたのです。2人の1人、ペテロ・バプチスタは、縄で十字架にくくりつけようとする役人に、「どうか私をキリストのように釘で打ちつけて下さい」と願ったが許されず、パウロ・三木は、「人が救われるのはこの道しかありません」、「死刑を執行する人をうらみません」と、見物の群集に語りかけ、12歳のルドビコは、賛美歌をうたい、黙祷をして最期を待っていました。執行人が槍を構えると、「天国! 天国!」と叫んで槍を受け、天に召されました。秀吉はキリシタン弾圧の為に、2人を見せしめの処刑にしたのですが、キリシタンたちはますます信仰をかため、新たに多くの人々が洗礼を受けたと報告しています。また、長崎に向う2人の雄々しい行進を見て、多くの人々がその姿に心を打たれました。彼らが処刑をされた日、長崎では住民の混乱を避けるため、外出禁止令が出されていましたが、4000人を超す群集が西坂の丘に集まっていました。その日その事を目撃した人はおろか、時を超え、2聖人の信仰はどれだけの人に、神の国を証ししている事でしょう。(LVJCCブログ制作チーム:薫)ブログランキングに参加しています。クリックで応援してください。