イラクで雲行きが怪しい。アメリカは、世界の良識的な声にも耳を貸さずに圧倒的な軍事力を湾岸地帯に集結しつつあり、その中でフセイン大統領も強硬姿勢を崩そうとしない。北朝鮮でも、金正日総書記とその側近が激しい勢いで反米の世論を煽り立てている。今にも戦争が始まりそうな、危険な情勢だ。
こうした状況の中で関係国のマスコミは高飛車になる一方である。「朝鮮中央テレビ」のニュースが日本でもしばしば紹介されるが、アナウンサーの口調といい、放送の内容といい、戦争中のわが国の大本営発表とそっくりだ。口を極めて「米帝」を攻撃し、最高指導者・将軍様を賛美し、「最後の勝利は自分たちにある」という自己陶酔的な言葉を重ねて国民の意志統一と戦意高揚を図る。
一方のアメリカは、これに比べればまだ余裕があるように見えるが、「正義が自分たちにある」ということを自明のことのように前提して敵を嘲笑ったり恫喝したりする点では同じだ。「最後は自分たちが勝つ」ということを少しも疑っていない。
さて、今日の箇所には第七の天使がラッパを吹いたときの様子が描き出されているが、その中心的な内容は、「最後の勝利は自分たちのものだ」という点にある。「天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった』。主は世々限りなく統治される」(15)。
これでは、国民を戦争に駆り立てようとする国が叫ぶ自己陶酔的な勝利のプロパガンダと同じではないか、という疑念を持つ人もいるかもしれない。実際、歴史上「キリスト教国」といわれる国々が行った戦争(例えば「十字軍」)に際して、聖書を根拠として勝利を叫んだ例は少なくないのである。
このような「戦争イデオロギー」とヨハネ黙示録に書かれている「勝利」とは、どこがどう違うのだろうか?
先ず、ヨハネ黙示録で問題になっている戦いは、国と国との間で行われる通常の戦争ではないという点に注意したい。
これまでも繰り返し述べたように、当時のキリスト教会はローマ帝国の圧倒的な支配の下にあって迫害を受けていた。信徒たちは各地で、理不尽にも投獄されたり、処刑されたりしていた。指導者のヨハネも島流しに遭っている。そういう目に遭いながら、教会はイエスの「非暴力」の教えを信じ、暴力で抵抗するという方法は初めから断念していた。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(ローマ12,19)。あるいは、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(同12,21)。これが、初代のキリスト教的倫理だったのである。
当然、力関係から言えば、全く問題にならなかった。一方的に苦しめられるばかりであり、その中で、「こんなことをしていて、一体、教会はどうなるのか」という疑問が生じてきたとしても怪しむに足りない。
キング牧師が指導した「公民権運動」のことを思い起こす。彼はインドのガンジーを通して「山上の説教」の現代的意義に目覚め、徹底した「非暴力主義」を貫いた。しかし、やがて黒人自身の中から「非暴力主義」への疑問が起こってくる。マルコムXの「ブラック・パワー」である。相手の暴力に匹敵するような暴力で立ち向かわなければ、結局は悪が勝つという結果になるのではないか。この思想は60年代後半に入って急速に説得力を持つようになった。
1968年4月、キングはテネシー州メンフィスで暗殺されるが、その直前のころ、彼は「ブラック・パワー」の台頭に深く心を痛め、一種の敗北感に打ちのめされていたという。彼は、「互いに愛し合って生きよ」、「敵をも愛せよ」というイエスの教えを心から信じて生き、自ら実践もした。そしてこの方法は、ガンジーの場合と同じように、一定の成果を上げつつあり、白人の中にも同調者が生まれた。だが、今になって足元からの厳しい批判にさらされたのである。
イエスに従って生きることに、本当に意味はあるのか? そんな生き方をしていれば、結局、悪に負けるということにならないか? 愛が勝つのか、それとも暴力の勝利に終わるのか?
ヨハネ黙示録における戦いは、このことに関しているのである。「天にさまざまな大声が」聞こえたとヨハネは言う。その声は、恐らく神の傍にいて昼も夜も神を賛美する天使的な存在(4,8-9)の声であろうが、こう叫ぶ。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」!
つまり、愛を教え・愛をどこまでも実践されたキリストが、私たちの主である。最後に勝利するのは、ローマ帝国の軍事的・経済的・政治的な力ではない。それは一時的には世界を支配するかもしれないが、やがて滅びる。だが、十字架につけられた主イエスの愛の力は、永遠である。「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです」(17)。
そしてその時、「天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えた」(19)。「契約の箱」とは、神がイスラエルを選んで「十戒」を与えたことを永く覚えるために「十戒」の二枚の石の板を収めた箱である。この永遠の契約こそ、最後の勝利は私たちのものだ、ということの根拠なのだ。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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