前回「ヨハネの黙示録」について説教したのは10月20日であった。その後、「宗教改革記念日礼拝」、「召天者記念礼拝」、「家族音楽礼拝」などが続き、そうこうする内に「待降節」に入ったため、二ヶ月以上も黙示録からは遠ざかっていたことになる。 久しぶりに黙示録をひもといてみると、改めてその難解さに閉口する人も多いのではないか。そこで、念のために全体の筋道を再確認しておきたい。
第一世紀の終わり頃、小アジア(今のトルコ西部)地方に散在する初代のキリスト教会はローマ帝国の迫害を受けていた。その中で、指導者のヨハネもパトモス島に幽閉される。いったい、悪しき支配者に牛耳られたこの世界はどうなるのか。そして、その支配下に置かれた教会の将来はどうなるのか。2000年後の我々が戦争やテロの不安に怯えているように、当時のキリスト教徒も、指導者のヨハネを初めとして、先が見えない不安に胸を閉ざされていたであろう。
だがその不安の中で、ヨハネはある日曜日に不思議な幻を見る。豊かな音響と色彩を伴って展開される幻である。とりわけ五章以下では、玉座についた神の右の手に七つの封印で封じられた巻物が見え、そして、小羊(イエス・キリスト)がその封印を次々に解いて行くのが見えた。これは、「世界史はどこに向かっているのか、また、悪しき支配の下に置かれた教会の行く先はどうなるのか」という問いに対する神の答え・神の啓示であって、世界史の終局は主イエス・キリストによって示されているという意味である。そして、これこそがヨハネ黙示録の中心的な内容なのだ。
世界の歴史はただ滅びに向かって下降線を辿っているわけではない。終末を迎えるに先立って多くの災害が起こり、甚だしい苦しみが襲うだろうが、最後には新しい天と新しい地が完成し、涙はことごとく拭われる。このことを、黙示録は我々に告げているのである。終わりまで耐え忍ぶ者は救われる!
さて、今日の箇所でヨハネは先ず、「神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ」(1)と命じられる。これは、神の民(教会)に対しては神の加護があるということを忘れてはならない、という意味である。「外の庭はそのままにしておけ。…そこは異邦人に与えられた」(2)という言葉は、恐らく紀元70年にローマ軍が「この聖なる都(エルサレム)を踏みにじった」(2)という事実を反映しているであろう。苦難は直ぐそこまで迫って来る。
だが、その苦難は永遠に続くわけではない。四十二ヶ月!あるいは千二百六十日。これは三年半に当たる。三年半とは、完全数である七年の半分である。つまり、悪しき者の支配は永遠には続かない。仮にそういうことが起こったとしても、その期間は限られている。苦しみは避け難いが、それはやがて終わるのだ!
さて、その苦しみの間、神は「二人の証人に粗布をまとわせ、…預言させる」(3)。「二人の証人」とは、「主の御前に立つ二本のオリーブの木」(4)とか、「二つの燭台」(同)という言い方が示しているように、教会を指す。また、「粗布」は悔い改めの徴としてまとう衣である。つまり、この悪しき時代のただ中で、教会はそれを悲しみつつも、自らを悔い改めて真実を語り続けなければならない。そして、教会が語る言葉には、昔の預言者エリヤのように「雨が降らないように天を閉じる力」(6)が、あるいはモーセのように「水を血に変える力」(同)が与えられている、というのである。
果たしてそうだろうか、と疑問を感じる人もいるだろう。むしろ、教会はおざなりの言葉を語ってきたのではないか。だから、歴史上の教会は戦争や大量虐殺を防ぐことが出来ず、貧富の差が広がって大半の富が富める者の手に収まるという社会的不公平を是正することが出来ず、地球環境の破壊が止めどもなく進むのにブレーキをかけることが出来なかったのではないか。
1月30日はナチスが権力を奪取してから70年目の記念日である。あの頃のドイツでは、「告白教会」がこの不正に抵抗して戦ったが、間もなく挫折する。指導者のバルトは国外追放され、ニーメラーもボンヘッファーも投獄されて、「告白教会」は38年頃には「どうしようもない」状態に陥った。スイスから抵抗運動を支えていたバルトも、あらゆる望みを捨てたほどである。
そうなのだ。教会は弱い。黙示録も、前記の二人の証人が「底なしの淵から上って来て彼らと戦う」(7)獣、つまり、悪魔的な反キリストの勢力に負けてしまう、と書いている。教会は、彼らの「主も十字架につけられた」(8)あの都の大通りに、見るも無残な姿で見捨てられて横たわる。地上の人々は「大いに喜ぶ」(10)。「この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである」(同)。真実を語る者は嫌がられるのだ。
だが、「三日半たって」(11)、つまり、限られた時が経つと、「命の息が神から出て、この二人に入った」(11)。亡骸のようになってしまった教会は再び「立ちあがる」(同)。それが可能なのは、内在する教会自身の力によるのではない。「命の息が神から出て、この二人に入る」からである。
前述したように、「告白教会」の弱さ・挫折・敗北にバルトはほとんど絶望したが、その時、彼は「だが、教会には聖書がある」と言ったと伝えられる。教会がどんなに弱く不真実であっても、そこには聖書がある。主イエスの命の言葉がある。それだけが教会の力なのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.