「心を見る神」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

I

皆さん、明けましておめでとうございます。2003年版の『日々の聖句』は、サムエル記上16,7の印象深い言葉:「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」を年間聖句として掲げています。新しい年の初めに当たり、この言葉が今の私たちに対して持っている意味を問いつつ、ご一緒に聖書に耳を傾けたいと思います。

II

「主は心によって見る」がキーセンテンスでしょう。では「心」とは、どのようなものでしょうか。「心」は非常に大切であるが、きわめて捉えがたいものでもある、というのが私の第一印象です。

 およそ人間は――それが開かれた心であろうと、閉じられた心であろうと――心なしには生きてゆけません。心のふれあいを欠いた心は、心とは言えません。そのような人は、むしろ〈生ける屍〉です。その意味で「心」は、人間が他者との関係に生きる存在であることの証拠です。旧約聖書では「心」を表現するヘブル語が、とりおり「私」という意味で用いられます。他者や世界との関わりの中に存在する「私」という意味です。同様に、新約聖書では「心」を表現するギリシア語が、生物学的な意味から区別されて、ときに「いのち」と訳されます。その意味で「心」は、私たちのいのちの働きそのものでもあります。

 他方で、「心」は捉えがたいものです。例えば物理学や大脳生理学の方法を用いて、心の動きを完全に記述することは、おそらく不可能でしょう。心は、むしろ生きている者の内面で、生きた〈はたらき〉として自覚されるものです。これと並んで、他人の表情や言葉、そして素振りなどが、残念ながら、必ずしも常にその人の「心」の本当の姿・「本心」を伝えないことを、私たちは知っています。いいえ、他人の心だけではありません。私自身の「心」も、しばしばいろいろな感情によってかき乱され、場合によっては非常に移ろいやすい。〈心が曇ること〉あるいは〈心変わり〉することもまた、人間の現実に属しています。

 すると「心」は、他者との関係において生きることが人間の条件であることを端的に示していると同時に、そのような生の捉えがたさ・危うさをも如実に表わしています。

III

このことと、「神は心によって見る」という聖書の言葉は、どのように関係するでしょうか。まず〈他者との関係における心〉という側面に関して、旧約聖書本文とその古代語訳を比較すると、用語法の違いに興味深いニュアンスの広がりが見てとれます。

人が「目に映ることを見る」と訳されている箇所のヘブル語原文は、逐語的には「両目との関係において見る」あるいは「両目にしたがって見る」と訳せます。同様に、主は「心によって見る」は、「心との関係において見る」あるいは「心にしたがって見る」です。したがってこの対表現は、対象の認識ないし関係のあり方における違いを示唆します。「心」による見方は、「両目」によるそれとは違う。人は「両目」的な関わりをするかも知れないが、神は「心」的な関わり方で人と関わるというのです。

他方、旧約聖書のギリシア語訳、すなわち『七十人訳聖書』は、この箇所を「人は顔の中を見るが、神は心の中を見る」と(意)訳しています。この場合に区別されているのは、見る対象です。つまり人は〈外面〉としての顔を、他方で神は〈内面〉としての心を見るというのです。

さらにラテン語のウルガタ訳聖書が、また違った訳し方をします。すなわち「人は目に映ることを見るが、主は心を凝視する」と。この訳で興味深いのは、「見る」という動詞が訳し分けられていることです。〈人間は外面をのっぺり眺めるが、神は心を内側からじっくり把握する〉という感じです。これは見る態度の違いと言えるでしょう。

 以上、少々ややこしいのですが、ヘブル語原典が、「両目」と「心」という対表現で〈認識のあり方〉の違いを前面に押し出すのに対して、ギリシア語訳は「顔」と「心」という表現で〈認識の対象〉の違いを、さらにラテン語訳は「見る」と「凝視する」という表現で〈認識の態度〉の違いを、それぞれ強調しているわけです。こうしたニュアンスの広がりを見るとき、「神は心によって見る」という一文を、パラフレーズしつつ〈神は、心と心が照らし合わされるようにして、私たちの心を見る〉と理解してよいでしょう。考えてみれば、〈心と心が照らし合わせるように心を見る〉とは、人間が真に人間らしくあること、自由であることにほかなりません。まさにそのような存在として、神は私たちを見る。

IV

次に、〈心の捉えがたさ・危うさ〉の側面に関連して、この聖句が置かれた『サムエル記』の文脈を見ましょう。

『サムエル記』は、イスラエル民族の歴史が、裁き司たちによって指導される緩やかな部族連合の時代から、一人の王に権力を集中させた王制の時代に移行していく過渡期を、つまり一つの激動の時代をとりあつかっています。

 さらに今日の聖句は、預言者サムエルがイスラエルの初代の王であるサウルを見限った後で、まだ少年に過ぎないダビデを選び、将来の王として密かに彼に油を注ぐ、その直前の文脈に現れます。すなわちこの言葉は、神がどのような視点で新しい王を選ぶかを、サムエルに告げている部分なのです。

 サムエル記は、登場人物をいたずらに理想化することなく、むしろ彼らの人生の姿を赤裸々に描く点に、大きな特徴があります。伝説の大王ダビデが、出征中の部下の妻を寝取り、この人妻を妊娠させてしまったことに気づくと、ついには彼女の夫を戦闘の最前線に置き去りにさせて殺した、というエピソードは、あまりにも有名です(サム下11-12章)。王と同盟者たちの間の抗争、また王家内部での骨肉の争いについても沈黙しません。

 さらにサムエルとサウルの関係も、劇的に変化します。当初サムエルは、民が要求する王政の導入に断固として反対しました(サム上8)。しかし神が王制導入をよしとした後は、神が選んだ初代の王サウルにサムエル自ら油を注ぎ、新王が周辺の諸民族との戦争に明け暮れるのを側面から支えます。サウルも王として、よく戦いました。ところがサウルは、アマレク人との戦争で、敵を皆殺しにせよという神の命令をほんの少しだけ破ったのです。しかも、それは悪意からではありません。ところがサムエルは烈火のごとく怒り、言下にサウルに対して王位剥奪を宣言します(サム上15)。そればかりかダビデが新しく油注がれた後は、神の送った悪霊がサウルを苦しめ(サム上16,14その他)、ダビデに対するサウルの妬みは、やがてはっきりした殺意となって王国の歴史に暗い影を落としました(サム上18以下)。

 ここに描かれているのは、心が曇ったり、心変わりしたりする人間の姿そのものです。さらに注目されるのは、「私はサウルを王に立てたことを悔やむ」という神の言葉です(サム上15,11。35節も参照)。自分の決断を後から悔いるのは人だけではない、神もそうだ、とサムエル記は、こともなげに言ってのけます。

V

私たちは、他者との心の交流なしには生きてゆけません。神が私たちを、〈心と心が照らし合わされるようにして心を見る〉存在として造ったからです。神もそのように私たちを見ておられる。しかしサムエル記によれば、そのことは、私たちに幸せな人生を決して保証しません。少なからぬ人々、とりわけ神に選ばれた権力者の人生は、不信感や不幸、反目や決裂、陰謀や策略、そして挫折を経験しています。私たちの心は、それが心である限り、そのような人生において、ズタズタに切り裂かれます。私たちの中にも、そのような経験をした人はおられるでしょう。また少し目を転じれば、抑圧や流血そして戦争は世界にあふれています。

 神はそのとき、〈心と心が照らしあわされるようにして〉私たちの心を見て、自由に考えを変える。神は、そのような意味で私たちと共に歩む存在、そして自由な存在です。

VI

他方で私たちにとって、〈心と心が照らしあわされるようにして、互いの心を見る〉――そのような生き方は、本当に可能なのでしょうか。可能だ、と新約聖書は答えます。イエス・キリストがそのような生き方をされたからだ、と。先ほどお読みした『ヨハネの手紙一』は、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」が「神の掟」であると言います(1ヨハ3,23)。私たちは、このことを信じます。

しかしどうすれば、「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合う」(3,18)ことに一歩でも近づけるでしょうか。そのためのヒントが、サムエル記の対表現にあるように感じます。「目によって見る」ことと「心によって見る」ことの違いは、前者が接触を避けて、外側から観察するのに対し、後者が他者との関係に入ることを通して知る点にあります。私たちは、他者と具体的な関係を結ぶことなしに、〈心と心が照らしあわされるようにして心を見る〉ことはできません。

例えば北朝鮮という国を、私たちはどのくらい、関係を持つことによって知っているでしょうか。かの国の「目に映る」典型的な姿とは、壇上の独裁者、軍事パレード、色鮮やかな民族舞踊の映像などです。あるいは中国国境を超えて亡命する人々の姿など。これらの見え姿を超えて、どのくらい私たちは、そこに暮す人々を「心を通して」知っているでしょうか。今ではインターネットがありますが、基本的には国の内情が外部にほとんど漏れない体制である以上、私たちにとって、そのことは非常に難しい。しかし少なくとも想像してみるべきだと思います。拉致被害者の家族の方たちは、失踪した子供たち・兄弟たちを、声も聞こえず姿も見えないままに、それこそ「心によって」見守り続けてきました。「心によって」見ることは、愛や想像力に結びつきます。

帰国された5人の日本人は、私たちにとって、あの国に住む人々の「心」を映す鏡のような存在です。この方たちは、25年間も、かの地に骨をうずめる覚悟で生きてこられた。当地の人々との「心のふれあい」は、あるはずです。この方たちを国と国の駆け引きの道具に使用することは、もう止めなければなりません。彼らは自由になるべきです。

VII

〈心と心が照らしあわされるようにして、互いの心を見る〉――これは、私たちが自由になるための大切な一歩です。マーチン・ルーサー・キング牧師の「私には夢があるI have a dream」という有名な演説の末尾に、次のような言葉があります。

「私達が自由を鳴り響かせば、すべての村、すべての集落から、すべての州、すべての町から、自由の鐘を鳴らせば、すべての神の民が、黒人も白人も、ユダヤ人も、非ユダヤ人も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取ってあの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。〈やっと、やっと自由になれた。全能の神に感謝しよう。やっと自由になれたことを〉と歌える日が。」

Free at Last! Free at Last!

Thank God Almighty

We are free at last!

(マーチン・ルーサー・キング・ジュニア ペーパープロジェクト)から抜粋。木山ロリンダ・斎藤真由美訳、http://www.stanford.edu/group/King/index.htm)

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉が、この世界に与えられた自由と解放の約束であることを信じ、私たちも新しい年の歩みを始めましょう。

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Emmanuel

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