世間では、12月25日が過ぎると、まるで「クリック」したようにクリスマスの飾りや音楽は消えて、一斉に歳末風景に切り替わる。しかし、教会の伝統では1月6日が顕現祭(エピファニー)であって、それまではクリスマスの喜びは持続する。規則というわけではないが、クランツもツリーも顕現祭までは概ねそのまま残される。今日の説教でも、引続きイエスの誕生に関連して語りたい。
母マリアは、イエスの誕生の不思議な経過を、「すべて心に納めて、思い巡らしていた」(2,19)という。父ヨセフも同様であったろう。これは、単に「自分たちに子が与えられた」という個人的な感動ではない。このようにして生まれた子が、将来この世界に対して大きな意義を持ち得るかもしれないという、一種畏敬にも似た感情を抱いたから、いろいろと「思い巡らしていた」ではないだろうか。
両親は、レビ記12章に定められた「清めの期間」、つまり産後の33日が過ぎたとき、幼子を「主に献げるため」(22)にエルサレム神殿に連れて行った。
最近の注解者の中には、これを民数記6章の「ナジル人の誓願」と関連させて理解する人が多い。「ナジル人」とは、特別な誓願によって「神に捧げられ、聖別された人」のことである。その誓願が続いている間、彼は酒を断ち、頭髪も刈ってはならない。サムソンがそうであったし、洗礼者ヨハネも多分ナジル人だったであろう。
イエスの両親には、この子を単に「自分たち二人の子」として狭い家庭の中に閉じ込めておく気はもうなかった。この子は神の偉大な使命を果たして行くために生まれたのだ。神に捧げよう。だから、「ナジル人」として神に捧げる際の規定(民数記6,10)に従って「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして捧げるために」(24)神殿に入って行ったのである。
そのとき、神殿の境内にはシメオンという老人がいた。この人は「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」(25)。彼は、この世界を代表するような形でここに登場すると言える。我々の世界は、その最も深い所で、真に「慰められる」のを待ち望んでいるのである。シメオンは、その「深み」を代表する。
さて、「慰め」というのは、第二イザヤがその預言を始めたときの最初の言葉である。「慰めよ、わが民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(40,1)。第二イザヤは、紀元前6世紀、ユダ王国がバビロニアのネブカドレツアル王によって滅ぼされた後で登場した預言者で、特に、いわゆる「バビロン補囚」(紀元前587-539年)の末期に解放を預言したひとである。先ほど朗読した所にも「主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんで下さった」(49,13)とあるように、彼は、ほぼ半世紀にわたる補囚の苦しみの後で民が解放されることを預言した。そして、それは預言通りに実現した。だから、「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」(52,9)と叫んだのだ。
ところで、2002年を代表する漢字は「帰」であるという。北朝鮮に拉致されていた人々の内、5人が24年ぶりに「帰って」きたからだ。確かにこれも「解放」であり、絶望と不安を抱いて故郷で待ちわびていた親兄弟は「慰められた」であろう。だが、この「解放」は部分的に過ぎず、「慰め」も十分ではなかった。拉致されたすべての人々の安否が確認され、全員が無事に帰国するまでは真に「慰められる」ことはない。
いや、仮りにすべての人が帰ってきたとしても、それで「慰め」が完全なものになるとは限らない。バビロン補囚から「解放され」たときもそうだった。解放された人々が故郷に帰ってみると、そこにも問題が山ほどあることに気がついた。新たな苦しみが始まった。
根本的に、人と人が憎み合って争うことを止める時が来るまでは、慰められることはない。本当に愛し合い・尊敬し合って共に生きるその時が来るまでは、慰められることはない。「国々が剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とし、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2,4)その時が来るまでは、慰められることはない。パレスチナで、イラクで、そして北朝鮮を巡って、軍事力で相手に無理やり言うことを聞かせるのではなく、つまり、「ローマの平和」・「アメリカの平和」ではなく、本来あるべき美しい関係(シャローム)が結ばれるその時が来るまでは、慰められることはない。シメオンはこの意味で「慰められるのを待ち望んでいた」のである。
そして、彼は今イエスを「腕に抱いた」(28)。このとき、真の慰めが彼を訪れる。彼は、美しい「シメオンの賛歌」を歌う。すなわち、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(29)。
この時、もちろんイエスはまだ幼子であった。しかし、ルカはイエスの生き方を詳しく知った上で、後からこの場面を書いているのである。イエスにおいて憎しみは克服された。彼は、敵をさえ愛するという生き方を実践し、すべての人にそれを教えた。これこそ、神が「万民のために整えて下さった救い・異邦人を照らす啓示の光」(31)なのである。このイエスにおいて、我々の世界は既に慰められている。イエスが生まれたということの深い意味がここにある。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.