世の知恵・神の知恵

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「世の知恵・神の知恵」

村上 伸
イザヤ書29,13-14;

 今日の箇所の冒頭に、「十字架の言葉」(18節)と言われている。この簡潔な表現を言い換えたのが、23節の「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」であろう。十字架につけられて死に、三日後に復活したキリストを宣べ伝えること。これが、「十字架の言葉」の内容なのである。

  それに続けて、パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです」(18節)と言っている。「滅んでいく者」という言い方はややキツ過ぎるかもしれないが、これは「異邦人」(23節)を意味する。もっと具体的に言うならば、「ギリシア人」(24節)のことだ。

 パウロはここで、「ユダヤ人」と「ギリシア人」を二つの典型的なタイプとして対比しようとしていた。「ユダヤ人はを求め、ギリシア人はを探す」(22節)というのがそれである。

 この対比について、少し説明を加えておきたい。ユダヤ人が求める「しるし」とは、語られた言葉が真実であることを示す「目に見える形」のことだと言ってもいい。例えば、ユダヤ人は、神が自分たちを神の民として選んで「契約」を結ばれた、と信じていた。そして、この契約には、常に目に見える「しるし」が伴っていた。ノアと結ばれた契約の場合、天と地を結ぶ美しい虹がその「しるし」であった。アブラハムの契約の「しるし」は割礼である。モーセの契約の「しるし」は、二枚の石の板に刻まれた十戒であった。このように、ユダヤ人は常にそのような「しるし」を求める。

 それに対してギリシア人は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者たちに代表されるような深い思索を重んじ、周りの人々を理論的に説得するために磨き抜かれた「知恵」の言葉を身につけることに努力を傾けた。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す」というのは、そういう意味である。それ故に、「十字架の言葉」は、ギリシア人にとっては「愚かなもの」であり、ユダヤ人には「つまずかせるもの」(23節後半)であった。

 では、何故ギリシア人にとって「愚かなもの」だったかと言えば、十字架は歴史上の一つの偶発的な事件、しかも、権力や富とは全く縁がない貧しい男が死刑に処せられたという歴史の片隅で起こった小さな事件に過ぎず、この死に何らかの重大な意味があるとはとても考えられなかったからである。

 また、何故ユダヤ人にとって「つまずかせるもの」だったかと言えば、十字架上でむざむざと殺された一人の無力な男が神の偉大さの「しるし」であるなどと、誰にも信じられなかったからである。

  さて、ここで十字架というものをいくらかでも生々しく「感じて」頂くために、やや余談めいた話をしてみたい。以前、御茶ノ水にある「明治大学法律博物館」には、拷問や死刑のために人類が考え出したさまざまな装置が展示されていた。私などは、「よくもまあ、こんな恐ろしいものを考え出したものだ」と、人間の残虐さに身の毛がよだつような気持ちになったものだ。

 それらの「オドロオドロしい」器具類と比べれば、十字架は残虐さの程度においてそれ程ひどくないように見える。だが、受刑者が肉体と精神に受ける苦痛は、勝るとも劣らない。先ず、その人を裸にして、公衆が見ている前で両手と両足を木の柱に太い釘で打ち付ける。それを垂直に立てるので、全身の重みが手と足の傷口にかかる。でも、簡単には死ねない。苦しみは延々と続く。個人差はあるが、段々と衰弱して行って遂に息を引き取るまで、人によっては三日も四日もかかったという。イエスの場合は、朝の9時から昼の3時まで、およそ6時間であった。

 精神的な苦痛はもっとひどい。その人がどんなに悪いことをやったかを広く「PRする」ために、「罪状書き」がその上に張り出される。要するに「晒しもの」にされるのである。このような十字架は、本来、ローマ帝国内で奴隷の反乱を力で抑え込むために考案された「見せしめの処刑法」であったというが、そうであれば、十字架をわざと最大級の「屈辱」に仕立て上げた理由もうなずける。

 だから、イエスが十字架の上で殺されたという事実を宣教の中心内容とするなど、ギリシア人の立場からもユダヤ人の見方からも、要するにどの面から考えても「とんでもないこと」であった。

 ギリシア人の「理性を重んじる」立場や、ユダヤ人の「律法の行為によって自らの義を実現しよう」とする生き方は、共に「世の知恵」を代表するものだ。そして、「世の知恵」は、十字架の言葉を「愚かなこと」と罵るか、それに「躓づく」かする。つまり、「世の知恵」は、十字架の言葉を拒否するのである。

 では、十字架の言葉を拒否する「世の知恵」は、一体、何をもたらしたか? 「世の知恵」は確かに優れた科学・技術を生み出し、政治のやり方を考え出したかもしれない。戦争さえも生み出した。脳髄を絞るようにして、できる限り多くの人を効率よく殺すやり方を発明した。パウロが、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」(21節)と言うのは本当である。「世の知恵」は神を知らない。その深い愛を知らない。神の愛によって育まれた生命の喜びを見失う。その何よりの証しが、どんなに小さな生命でも愛したイエスを十字架にかけて殺してしまったという事実である。

 だが、十字架につけられたキリストには、「神の力、神の知恵」(24節)が現れている。それは、自ら苦しむことによって、この世で苦しむすべての人の傍に立ち、真の意味でその人たちを助けるという、不思議な「神の知恵」なのである。



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