「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

イザヤ書11:1-10;マタイによる福音書3:1-12

イザヤ書11:1-10;マタイによる福音書3:1-12

アドヴェント・クランツの2本目のろうそくに光が灯りました。
今朝私たちは待降節の第2主日を迎えました。この第2主日は「平和」の日曜日です。平和を考え、祈る1日に、あるいは今日1日は、せめて平和に過ごせるようにしたいものです。

今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されます。しかしそれはヨハネに注目するためではありません。私たちはヨハネが指差した救い主に見つめるのです。11節のところで「わたしの後から来る方」とヨハネが語っていますが、ヨハネが示したお方に私たちも心を合わせて今日の礼拝を捧げましょう。

実はこの記事はルカ福音書にも見られるものです。しかし、ルカとマタイを読み比べてみるとそこにはそれぞれの福音書を記した人の思いが見られるのです。今日の箇所の冒頭の部分を読みます。

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

マタイはこういう出だしでヨハネのことを私たちに伝えています。ところが、ルカによる福音書では3章3節に

ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

と淡々と事実を告げているのです。これに比べてマタイの表現は劇的と言うか、私たちに迫ってくるものがあります。おそらくマタイはこのヨハネの言葉を最も私たちに伝えたかったのではないでしょうか。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」

マタイはまず命令形で伝えます。まず「悔い改める」ことを私たちに突きつけて、求めてきます。おそらく皆さんが「悔い改め」と聞くと自分の犯した過ちや罪を反省して、もう2度とそのようなことを起こさないために、また真面目に生きていくことを決意するというような意味を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、聖書で「悔い改め」という時には、「神に心を向け直す」のです。もちろん心だけではありません。身体もです。そういう意味があるのです。それはなぜかと言いますと人間はすぐに神を捨て、神に背を向けて生きてしまう傾向があることを前提として物語っています。

神はずっとずっと昔、この世界が始まる時から人間を愛してくださっていました。そしてそれだけではありません。数々の恵みをくださり、人間を導いてこられました。これは私たちにも大いに関係のあることです。そして神は私たち一人ひとりのいのちをも創造されました。神がおられなければ私たちの存在もありえなかったし、私たちが今日まで生きてくることもできなかったのです。しかし、私たちはすぐに神を捨て、無視し、背を向けて生きてしまいます。自分の好きなように、楽しみを求めて神を離れようとします。それを素直認め、反省しながら神のほうに方向転換することを「悔い改め」と言うのです。

ヨハネはユダヤの「荒れ野」でその悔い改めを宣べ伝えた、とあります。
「荒れ野」とは人間にとって生きていくのに厳しい場です。しかし聖書では荒れ野は神と出会う場でもあります。一人で生きていくことのできない荒れ野で神が私たちにいのちを与えてくださるのです。生きていくのがもはやできない荒れ野で洗礼者ヨハネは「声」を聴くのです。いったい誰の声でしょう。3節に「荒れ野で叫ぶ者の声がする」とあります。そうです。神の声を聴いたヨハネはそれを人々に告げたのです。

では彼は何を告げたのでしょう。それが「悔い改め」でした。
なぜなら7節でヨハネが言っているように神の怒りが差し迫っていたからでした。その怒りを回避するには何よりも神に心を向け直すことが必要だったのです。すべての人に向けてヨハネは悔い改めへ招きました。それは9節で「我々の父はアブラハムだ」と自分たちがアブラハムの子孫であることを誇りにしていた人たちに向けてもなされたことでした。すべての人に向けてですから、当然その中には、もう自分自身が救われているという誇りや自覚を持っていたファリサイ派やサドカイ派の人々、そして自分たちの伝統や慣習を絶対だとしていたユダヤの人々が含まれています。そのような「アブラハムの子」を自認している者たちを含め、すべての人が「今ここで」悔い改めることをヨハネは求めたのです。彼らの多くは律法や慣習を守ることだけに固執して、真実の神との出会うことなく、また、自分たちを高く見るあまり、多くの貧しい人々や苦しみの中にある人々を踏みにじり、人を人とも思っていなかったのです。しかし、そのような人も悔い改めることによって救いに与ることができるのです。そしてその救いの象徴が「洗礼」でありました。

悔い改め、洗礼を受け、そしてそれだけでは終わりではありません。悔い改めた者の生活というのは、8節にあります「悔い改めにふさわしい実を結べ」ということです。10節にも「良い実を結ぶ」とあります。ヨハネがここで求めたのは悔い改めた人の生活に変化が起こることでした。それはそれぞれの生活の中で神の愛を行う人に変えられることでした。

「悔い改めよ、天の国は近づいた」。
実はヨハネが指差したイエス・キリストもご自身の活動を開始される時に、同じ言葉を用いています(4章17節…イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた)。ヨハネもイエスもともに「神に心を向け直すことを」第一としたのです。

簡単に言いますと、これは神と私たちとが出会うことをヨハネ、そして主イエスが導いてくださったことにほかなりません。私たちの毎日の生活は「荒れ野」での生活かもしれません。苦しいこと、悲しいこと、悩めること、そんなことが山積しているこの闇のような世に、光として主イエスは来てくださいました。私たちには何も見えないような真っ暗闇かもしれません。けれども闇の中にも、それは私たちに最初は見えないかもしれません。でも私たちが暗い所にずっといると目が慣れてくるように、闇の中にも、希望がないようなところにも神の愛は働き続けています。その闇の中に神の愛を発見する時、荒れ野の真ん中で神のみ声に聴く時、私たちはその時本当に神に出会うことができるのです。

私たちが神を感じ、神の愛に生かされていると感じるのは、たとえば物質的なものが与えられたとか、願っていたことが実現したというような中で感じられるものではなく、私たちが本当に苦しくて苦しくて、もう荒れ野の中で叫びたくなるような時にこそ感じられるものです。私たちがすべてをさらけ出して、何一つも隠すことなく神の前に出る時、それは本当に神に出会える時なのです。そして神の指が皆さんの心に触れられるのです。

「悔い改めよ、天の国は近づいた」というヨハネの叫びは、神と私たちが本当の出会いを果たしてほしい、その一心でなされたものなのです。ヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになります。私たちが神に背を向け続けても神の子は来られることに変わりはありません。私たちはただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのかどうかを糾明しながら待降節の一日一日を歩みましょう。

「悔い改めよ、天の国は近づいた」。

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