キリスト教Q&A なぜクリスチャンはバプテスマを受けるべきなのですか? (22)
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
バプテスマは聖餐式と共にイエス様が教会に制定された大切な聖礼典です。イエス様はこの世を去って天に戻られる時、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によって、バプテスマを授け、またわたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と言われました。したがって、教会はイエス様を信じる者にバプテスマを授ける責任があるのです。 まず、最初に理解すべきことは、神が契約に基づいて働かれるということです。新約聖書と旧約聖書は、新しい契約と古い契約ということで、聖書は契約の書であると言えます。ですから、もし契約のことが解からなければ、バプテスマは契約のしるしなので、このバプテスマの問題を十分に理解することはできません。 へブル書13:20の「永遠の契約の血による羊の大牧者」という言葉からも、神が契約に基づいて働かれることが解かります。永遠の契約は、天地創造の前からある父なる神と子なる神の間における契約で、父が選ばれた者を子に与えるというものです。 ですから、もし神が、契約に基づいて働かれること、またご自身の契約(虹、割礼、聖餐など)の顕現としてしるしを用いられるということを理解していなければ、バプテスマが、神の契約のシステムのどこに当てはまるかが解かりません。次に私たちは、バプテスマが何であるかを知る必要があります。それは内なる現実の外における表現です。たとえば、バプテスマはキリストの血によって魂が洗い清められた内なる現実を表します。そこで、この事が様々な異なる方法で表現されるのです。つまり、バプテスマは、人の死(ローマ6:3-5)、キリストと人との一体(ガラテヤ3:27)、罪のきよめ(使徒22:16)、イスラエルがモーセにつくバプテスマを受けた時のように誰かにつくという証し(Iコリント10:2)、また一つの教会に結ばれる(Iコリント12:13)という様々な象徴的意味があるのです。 バプテスマは父、子、聖霊の御名によって行われます。人がキリストの体なる教会の交わりに加えられるのは、この聖礼典を通してです。またクリスチャンのバプテスマは、人がその信仰とキリストの弟子になることを公に告白する方法でもあります。さらに、バプテスマは、救いの後の、主に対する従順の行為です。バプテスマは救いと密接に関係していますが、救われるための条件ではありません。聖書は多くの箇所で、事の順番を示しています。①人が主イエスを信じる。②その人はバプテズマを受ける。この順序は使徒行伝2:41などに見られます。 ですから、イエス・キリストを信じた人はできるだけ早いうちにバプテスマを受けたいと願うべきです(使徒行伝8:35-36)。またバプテスマは、信じる者がキリストの死と埋葬と復活と一つにされていることを描くもので、福音が伝えられるあらゆるところで、人々はバプテスマを受けるべきなのです。
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