「金持ちと貧しいラザロ」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
2000・5・14

「金持ちと貧しいラザロ」

村上 伸
イザヤ書 58,6-11 ; ルカ福音書 16, 19-31

ここには、金持ちと貧しいラザロの生活が極めて対照的な仕方で描かれている。

金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布」(19) を着ている。「紫の衣」とは、アッキ貝から取る染料で染めた高価な上着、「柔らかい麻布」はエジプト産の亜麻布のことで、これは下着に用いられる。いずれも当時の王侯貴族が着たものだ。昔、木綿よりもずっと上等という意味で、「絹物を着る」という言い方があったが、それに当たるであろう。金持ちは、こういう着心地の良いものを着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた。

一方、この金持ちの「門前に」(20)、ということは「目と鼻の先に」ということだが、「ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわって」いた。この「近さ」も、対照を際立たせる。「できものだらけの」という表現は、ろくに着る物もないことを示している。その上、彼は「その(金持ちの)食卓から落ちる物で腹を満たしたい」(21)と思うほど、お腹を空かしていた。だから、立ち上がる力もなく寝そべり、犬に「なめられ」(21)ても追い払うことさえできない。

福音書は先ず、このような貧富の差が現実にこの世界にはある、という事実を描き出す。理由や原因は問わない。ただ、こういう現実がある、と言う。

続いて22節以下では、二人が死後どうなったか、という話が展開する。

古いユダヤの民間説話に、これと似たようなものがあるという。例えば、バアル・マアヤンという金持ちの徴税人と、貧しい律法学者の話などがそれだ。金持ちは死んで立派な墓に葬られ、貧しい律法学者は誰にも知られずに寂しく死んだ。その後、彼の仲間が夢を見た。死んだ貧しい律法学者は美しい楽園にいて、そこにはこんこんと湧き出す泉がある。だが、金持ちのマアヤンは向こう岸にいて、この泉の水を飲みたいと切望するけれども、どうしてもこちらに来ることができない、というのである。

大体の骨組みにおいて、二つの話は同じである。この世には「貧富の格差」という現実がある、ということ。そして、死後、金持ちと貧しい人の立場は逆転する、ということ。だが、この逆転の意味は、「天国で幸せになる」などということではない。これほどの「貧富の格差」は本来あるべきではない、ということであろう。

100%の平等があり得ない以上、多少の差は仕方がない。だが聖書は、今日の話のような極端な「貧富の格差」を、「当然のこと」として、あるいは「やむを得ないこと」として容認しないのである。こういうことは、公平と正義を求める神の意志に照らして正しくない。ここが肝心な点だ。このような「貧富の差」は神の造られた世界には本来なかったし、やがて来るべき「神の国」にもないであろう。

歴史的に考えてもそうだ。初め、人間が獣や魚を捕り、木の実を拾い集めて食べていた「原始共産制」の時代には、これほどの「貧富の差」はまだなかった。「その頃は戦争もなかった」と、考古学者の佐原真氏は言う。日本の場合、弥生時代に入って稲作が始まり、次第に富が蓄積されるようになると、それを奪うための部族間の抗争、つまり戦争も始まった、と佐原氏は考えている。部族内に「持てる者」と「持たざる者」との格差が少しずつ広がっていったのも、その頃なのだろう。

このようにして生じた「貧富の差」は、やがて、「持てる者」が「持たざる者」を働かせてその労働の剰余価値(マルクス)を搾取する「構造的な」ものに変わっていく。もちろん、その原動力は人間の原始的なエゴイズムだが、最早、「だれそれが欲張りだ」というようなレベルの話ではない。社会の仕組みがそうなっている。

ソ連が崩壊した後すぐに「新興財閥」が台頭したのも、現代社会にこのような構造があることを物語っている。今日の譬え話さながらに、多くの国民がどん底の苦しみにあえいでいた時、一握りの金持ちは上質の服を着て、贅沢に遊び暮らしていた。

東西ドイツの再統一の後で起こった現象もこれと変わらない。もちろん、東の社会資本を充実させるために西側から巨額の投資がつぎ込まれ、その意味で西側が「犠牲を払った」面があることも否定できないが、あからさまに言えば、統一後、西側の資本が物凄い勢いで東に入り、チャンスをものにしたのであった。

「市場経済」の原理が導入された以上、このような格差が生じるのは「やむを得ない」と多くの学者も政治家も言う。だが、この中にはなにか罪の匂いがしないだろうか?現代人は、「これでいいのだ」と胸をはって言えるだろうか? 「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」という先人の言葉は、我々の胸を刺すのではないか?

一つの例として、ドイツの神学者H.ゴルヴィッツアーが1968年に書いた『富めるキリスト者と貧しいラザロ』という本を挙げたい。その年、世界教会協議会(WCC)の総会がスウエーデンのウプサラであり、そこでは「人類の三分の二は飢餓線上をさ迷っている」という事実が繰り返し指摘された。帰国した彼は、すぐこの本を書く。

この中で、ゴルヴィッツアーは述べている。「残り三分の一の大部分は、洗礼を受けたキリスト者である。このキリスト者たちが、富める人としてテーブル掛けのかかった食卓の周りに腰掛け、そして貧しい非キリスト者であるラザロが外の戸の前に横たわっている」。しかも、このような非人間的な貧富の格差は、「キリスト教的ヨーロッパ」がアジア・アフリカを植民地にし、長年にわたって収奪してきたことの結果なのだ。これは、公平と正義を求める神の御心ではない、と彼は言う。

ゴルヴィッツアーは、今日我々が読んだ譬えを、極めて現代的な意味を持つ物語として受け止めた。我々も、そのように読むことを許されるだろう。具体的な帰結として、世界中の教会が今協力して進めている「ジュビリー2000」(最貧国の債務帳消しキャンペーン)に参加することを考えてはどうか。



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