あさが来た」のヒロインのモデル広岡浅子’
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今回は、NHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル、広岡浅子のことを書いてみました。広岡浅子は、明治・大正を代表する女性実業家で、1849年、三井財閥の三井高益の四女として京都に生まれ、良家の娘として、和歌や茶華道などを学ばせられましたが、「女子も人間です。人間は学問をしなければなりません。女子にも学ぶ機会さえ与えられれば、必ず修得する頭脳はあります」と両親に反抗して育ちました。17歳で大阪の豪商・加島屋の当主、広岡信五郎に嫁ぐと、花柳界に入り浸りだった夫に代わって実業界に身を投じ、石炭の鉱山や銀行の経営に当たり、現在の大同生命の創立に関わりました。男まさりの浅子は、明治維新で大阪の富豪たちが没落していく中、諸藩の屋敷を訪ね回って直接貸金を回収、鉱山の現場監督として、護身用のピストルを携えて暗い坑道に入って行くことさえしました。40代後半に女性教育の先駆者であった成瀬仁蔵と出会い、1901年の日本女子大学校(現日本女子大学)開設に尽力を尽くしました。1911年に大阪教会(現在の日本基督教団大阪教会)で洗礼を受け、熱心なクリスチャンになります。また女性の人権・地位向上に尽力し、売春問題に苦しむ女性の救出に力を注ぎ、日本キリスト教女子青年会(YWCA)中央委員などを務めるなど、晩年までキリスト教の女性解放にも従事しました。浅子に大きな影響を与えたのが牧師の成瀬仁蔵です。留学先のアメリカで女子高等教育の必要性を感じた成瀬が書いた『女子教育』の「女子をまず人として、第二に婦人として、第三に国民として、教育する。この順序を間違えてはならない」という理念に感動した浅子は、日本女子大学校開設のため、人脈を生かして、大隈重信、渋沢栄一など政財界の重鎮に働き掛けました。60歳を過ぎ、乳癌を患いますが、手術をして一命を取り留め、成瀬の紹介で大阪教会の牧師、宮川経輝と出会い、教えを受けます。宮川は海老名弾正、徳富蘇峰などと共に熊本バンドの一人として同志社の第1期卒業生となり、大阪YMCAの初代会長など日本プロテスタント史で大きな役割を果たした人物です。また救世軍の山室軍平とも交流し、1911年に洗礼を受けてクリスチャンになりました。浅子は、晩年には若い学生たちを招いて勉強会を主宰し、ここから市川房枝(婦人運動家、政治家)や、村岡花子(児童文学者、ドラマ「花子とアン」の主人公)などが育ちました。1917年には、大阪YWCAの創立準備委員長に就任、また廃娼運動にも尽力し、女性の教育や解放に尽くすことで、若い女性たちが私もああなりたいという、生きたロールモデルになりました。また、伝道師で多くの教会や大学を建築したウィリアム・メレル・ヴォーリズと結婚した一柳満喜子は、浅子の娘亀子の夫広岡恵三の妹で、浅子にとって義理の息子の妹に当たります。浅子が娘のように可愛がっていた満喜子がアメリカ人のヴォーリズと結婚する際、華族という家柄や外国人への偏見、日本国籍を捨てることから、家族の反対の声も大きかった中で、これを「理想的な結婚」と呼んで応援しました。私は今回、「あさが来た」の中では表現されていませんが、広岡浅子が、熱心な信仰を持ったクリスチャンとして、キリスト教の中で大きな仕事をした人たちとつながっていたことを知り嬉しく思います。ヴォーリズと満喜子が対等のパートナーとしていけたのは、浅子の応援があったからで、またそれは日本の近代の歴史の中で、キリスト教が日本の家制度を変える役割を果たしたことにも繋がるのでしょう。鶴田健次
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