明治学院大学のグレゴリーバンドをお迎えして、共に礼拝を捧げる機会を、この春もこうして備えられた事を大変嬉しく思います。 先ほど招詞でお読みした聖書、コロサイの信徒への手紙3章16節は、グレゴリーバンドがクラブの聖句として掲げておられます。この成句が指し示しているような働きを、40年に亙って続けてこられた事に、深い感銘を覚えます。私もこの4月で教員生活39年目を迎えました。その間、前途に大きな可能性を持った、若い人々と過ごす事ができたのは何より嬉しい事でした。そして今日のように、出会いの楽しい思い出を分かち合える、かつての学生が、グレゴリーバンドのメンバーとして賛美の歌を捧げておられる姿に接する事ができるのはひとしおの感激であります。キャンパスで出会った師弟の関係から11名も牧師になって、私を凌駕して活躍しておられる事もありがたい事と感謝しています。そのように今は立派に活躍しておられる方々も、十代の後半から二十代の前半にかけては、嵐のような青春時代を過ごしていたように思います。私が一番思い出に残っているのは6、70年代の学園紛争期を若い人たちと、しかもバリケードの中で過ごした事であります。 現在は、また違ったバリケードがあって、これまたその中で共に過ごす事が出来る幸いを味わっています。6、70年代のバリケードは外側の権力に抵抗した、見えるバリケードでしたけれど、現在のバリケードはそれぞれが、自分に閉じこもって外界とは極力交渉を避けようとする心のバリアであるように思います。昔のバリケード学生は教会にもやってきて自分が主張する領域を広げようとする意欲に溢れていましたが、自分のバリアを張る今の学生は、呼びかけてもなかなか教会には来てくれません。それだけに、こちらから一方的に語るのではなく、バリアの中にいる人から声を聞く必要を痛感しています。そこで工夫したのは、出席カードの裏に書いてもらう事でした。今日の説教題はその出席カードの裏に応えるつもりでつけさせていただきました。授業を履修している大学一年生から、次のような質問が書かれておりました。
「愛する人が亡くなったとき、それでも先生は神様を信じる事が出来るのですか。」<
同じような趣旨の質問ではこう書いてありました。:
「今の世の中に、こんなに不幸な出来事が次々と起きているのに、一体神様は、何をしておられるのですか。このような不幸な出来事を見ていると、本当に神様がおられるとは到底思えないのですが、先生はどうお考えですか。答えてください。」
不幸な出来事の中には、有珠山の噴火のような自然災害を思い浮かべている人もいる事でしょう。あるいは、失業率が最高になって、父親の事業がうまく行っていないこと、リストラで失業した家族を思う人もいます。1年生としては、この春挑んだ大学受験の結果が思わしくなく不本意な結果を嘆いている人、つまり、自分自身が不幸の中にいると思いながら、神様が何も助けてくれなかったことを恨み、嘆いている様子がありありと伺えるような質問がたくさん私に寄せられています。しかも授業の第一日目で、およそ180名の大学生のうち、117名もの大勢が、自分が受けた過去の体験をもとに、堰を切ったように聖書を講ずる教師に疑問を投げかけてくれたのは大変嬉しいことでした。宗教不信、神への不信はそのまま、人間不信、社会不信、大人への不信にもつながっているように思います。今の時代はそれ程、絶望的な状況なのでしょうか。若い人々が希望を持てないような時代なのでしょうか。これは私が体験した青年時代と比べてみたところから抱いた個人的見解ですが、私の青年時代の方がもっと絶望的であったように思います。「愛する人が亡くなったとき、それでも先生は神様を信じる事が出来るのですか。」この質問をしてくれた人を前にして、私はこう問い返しました。「あなたは今、実際に愛する人を亡くした悲しみを抱きながらこの質問をしておられるのでしょうか。もしそうであるならば、このような問い方はしない筈です。」
私は1947年に2歳年下の妹を亡くしました。それは本当に悲しい体験でしたけれど、神様はいない、とか、神様を信じられないと言う気持ちにはなれなかったように思います。むしろ僅か8年間だけであったけれど、妹が初めから居なかったよりは、8年だけでも一緒にいてくれた事に深い感謝の気持ちを、子供ながらに持つことが出来たように思います。もし、死が永遠の別れであるとすれば、むしろそれは本当に辛く、耐えられない事ですが、神様が居て下さって、いつの日かまた会うことが出来ると言う希望が心の底から湧き上がって来たのを覚えています。先の質問は愛する人を本当に亡くした悲しみのなかで発しているようには思えない。そのように私は答えました。想定した悲しみは本当の悲しみではないし、本当の悲しみの中で人は神と出会うものである、と付け加えました。私の診断が間違っていなかったことを、この質問者から戴いた返信で知ることが出来ました。或る別の学生は、失恋の痛みを例に挙げて、それは本当に辛い体験であったけれども、相手を知ることによって受けた恩恵の方が、断ち切れた悲しみよりも遥かに大きいこと、そして相手に対する尊敬と感謝の気持ちが今でも続いているから、失恋なのであって、それは愛する人を亡くしたときと同じことかもしれない、と言う素晴らしいコメントまで添えてあったのです。
世の中には、どう考えても理屈に合わない、おかしな事が起きているのも事実です。先の学生たちが神の存在を信じる事が出来ない理由として挙げている事は、そのまま、正しいように思います。もしも神様がおられるならば、どうしてこのような不幸があって良いのでしょうか。なぜ神様は不幸な出来事が起こっているのを見過ごしにしておられるのでしょうか。しかし、ここにも架空の不幸を想定して、質問をしている節が見受けられる様に思います。架空の不幸という言葉は事柄を正確に言い表わしていないかもしれません。いま、我が身に本当に起こっている出来事であるならば、不幸をそのまま神の不在という問題にすり替えてしまうような余裕はないはずです。不幸の問題を真摯に取り上げ、これを我が身に受けて生き抜いた人として、わたしはシモーヌ・ヴェイユを思い浮かべます。彼女はユダヤ系フランス人としてナチスへのレジスタンスに身を投じ、そうした運動の中で宝石のような言葉と信仰を残してくれました。彼女は不幸について、こう述べています。
「不幸とは、肉体の苦痛であると同時に魂の苦痛であり、社会的な転落である。」
「不幸はそれに取り付かれた人々から人格性を奪って、その人々を物体にしてしまう。不幸は無関心であって、それに触れるすべての人々を魂の底まで凍らせるのは、この無関心の冷たさであり、これは金属のような冷たさだ。彼らはもはや自分が誰であるかを信じなくなる。」
「不幸を神から与えられた試練であるとか、教育の手段であると見倣して、合理化、正当化するわけにはいかない。不幸は絶対に承認できない。そして不幸が人間存在の根底に横たわっている限り、我々は神について語る事は出来ない。」
「不幸はしばらく神を不在にする。しかし、不幸にあってこそ、神の愛が人間に出会い、そして不幸にあって、しかも魂が神の方向に向かっている場合にのみ、魂と神とを隔てていた幕に穴が空く。」
「不幸のなんであるかを知ったものは決定的に神の不在を口にせざるを得ない。にもかかわらず、その不幸の中においてのみ、人は神の愛を知る事が出来る。」
若い方の真剣な問いかけや疑問は、シモーヌ・ヴェイユの問いかけにも通じる内容と真剣さを持っています。一点だけこうした若い方々に、更に、期待を添える事が許されるならば、恐れずに不幸と対面し、その不幸のただ中で神の不在を叫ぶような強さを、今の若い方々に望みたい、と思います。不条理を前にして、神の不在を叫んだのは今の時代に始まったことではありません。聖書の中にも「神なき時代」の苦悩が描かれています。先程お読みした旧約聖書のヨブ記がそれにあたります。
義人であると周りの人からも称賛され、自らもそれを誇りにしていたヨブは家族、財産の全てを失い、自分の健康までも損なってしまいます。彼の妻は、皮膚病で余りにも見苦しくなった夫を見て、「あなたは神をのろって自害しなさい」と勧めます。それに答えてヨブは2章11節で、「おまえまで愚かなことを言うのか。私たちは神から幸福をいただいたのだから、不幸も戴こうではないか。」そう言って妻をたしなめる強さを、この時点ではまだ持っていました。しかし3章からは一転して、ヨブは絶望に陥るのです。彼は生まれた日をのろい、死を望んでも、それは生きることより難しく、仕方なく生きているヨブの姿が描かれています。2章から3章への余りにも変身したヨブの姿にヨブ記を読む人は戸惑いを覚えるかもしれません。この物語は世界最古の小説に数えることの出来る文学作品でありますが、お読みになれば直ぐに分かる通り、散文で書かれた1章、2章と42章の終わりの部分は義人ヨブの姿で一貫しています。つまり、元来はバビロニアか、東方に伝えられていた義人物語を聖書の記者が、バビロン捕囚時代に持ち帰り、手を加えて出来たものが今、私たちが手にするヨブ記であると考えられています。1、2章にも聖書の記者は手を加えていたに違いありません。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」全てを失った時にヨブの語る言葉は正に信仰者の模範であります。しかし、私たちにはこのような信仰が保てなくなるほどの苦難に遭うことも事実ではないでしょうか。ここに加筆の聖書記者が登場するのです。
「わたしの生まれた日は消えうせよ」(3章1節)
「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。」(11節)
「なぜ、・・・ 悩み嘆く者を生かしておかれるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない。」(21節)
「行くべき道が隠されている者の前を神はなお柵でふさがれる。(23節)・・・ 静けさも、やすらぎも失い、憩うこともできず、わたしはわななく。」(26節)
3人の友人がヨブを慰めにやって来ます。いずれも、因果応報の教えを携え、ヨブに向かって回心と懺悔を勧めて、神からの赦しを、求めるようにヨブを諭すのです。先程お読みした13章は友人たちのこうした勧めに対してヨブが答える場面に当たります。
因果応報の神は人間の都合で作った神に過ぎないこと。そういう神は存在しないと言い返したあと、神不在の中にあって本来あるべき信仰を著者はヨブを介して私たちに伝えています。それが15章、16章にあたります。
「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。このわたしをこそ神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら御前に出るはずはないではないか。」
ヨブ記の思想は20世紀の幕開けに世を去った現代の思想家の、F.Nietzsche に非常に近いと思います。神なき時代、正確には、人々が常識的に抱いている勧善懲悪の神はもはや存在しないことを悟り、神の死を宣言したあと、なお残る信仰、それは空しい人生を永遠に耐え抜く各自の強靭な意志、生きようとする意志を自分への信仰として最後まで守り抜くことであります。これこそが神の前で救いとなる、とヨブが語る言葉は、そのままニーチェの思想にも繋がっていることが分かります。ヨブが抱いた信仰の素晴らしさは、ヨブ記の神様も42章7節で評価しておりますが、同時に、ヨブになお一つ足りなかったところをヨブ記の著者は指摘しています。それが42章3節です。
「これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。」
天の声に答えて、ヨブの回心の言葉が続きます。「そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。」ヨブに足りなかったことは、それが精一杯の生き方であったとしても、なお神のご計画の中に自分が置かれてある事を認めて、謙虚になることでした。人が抱くどんな正しさもそれだけでは、正しさを貫くことにはなりません。その正しさを広く隣人のため、他者のために捧げてこそ正しくあることが意味を持つのであります。神のご経綸の中に自らの正しさを委ね、最終の判断を御手に託す姿勢がヨブには足りなかったのであります。
身内の中に、愛する者を失った悲しみで、打ちひしがれている家族のことがヨハネ福音書に記されています。それが先程お読みしたもう一つの聖書でありました。マリアとマルタと言う姉妹にラザロと言う弟がおりました。ルカ福音書10章38節にイエスがマルタとマリアに語った有名な物語がありますが、同じ人物であるかもしれません。ヨハネ福音書にはルカ福音書になかった情報として、この姉妹に弟ラザロがいたと言うこと。そしてこの家族はベタニアに住んでいたと言う二つの情報がが新しく加えられています。両福音書に共通しているところでは、この姉妹と家族がイエス様を大変慕っていたと言うことです。そしてイエスご自身もこの家族に会うことを楽しみにしておられたと言うのが二つの物語から良く伝わって来ます。ベタニアはエルサレムに入る直前の最後の町で、あと一息、山を越えればエルサレムの町を見下ろせる、ゲッセマネの園に通じる小さな村でした。今でも、マリアとマルタの家と、ラザロの墓が保存されているのですが、それが昔のままであるのかどうか、また同じ家であり、墓であるのかどうかは分かりません。でも、マリアとマルタ、ラザロの物語がこの場所に繋がっている事を確かめるだけで、聖地旅行は十分に報われる筈であります。私は2度訪ねて、その都度感激を新たに致しまLた。石造りの小さな家で、窓も小さく、薄暗い部屋の中でラザロの埋葬を終えて一段落して、悲しみが新たに込み上げている柿妹と親戚、知人が集まっています。
ヨハネ福音書はどこを読んでも同じイエスの姿が描かれていると言われています。ある人は、ヨハネ福音書のことを金太郎飴の様な福音書であると言いました。どこで切っても、おなじイエスの顔が出てくるからです。イエス・キリストの誕生以前から神と同じ姿を持ち、人となっても天の姿がそのまま現われていて、力あるしるし、奇跡を地上で表し、十字架の出来事にあってもひるむ事なく、自ら十字架を担いで堂々とゴルゴタの刑場に向かうイエス、それは栄光と勝利の凱旋であり、復活は勝利のあかしであります。金太郎飴はラザロのところでも正に同じ姿をもって現れています.十字架以前でさえも復活の姿はイエスのみならず、信ずる群れの人、ラザロにも表されているのです。マルタがイエスに寄せる全幅の信頼は私たちにもそうあるペきことを、問いかけています。そうある時にのみ、愛する人を無くした悲しみが拭われる道のあることをヨハネ記者は私たちに語っているのです。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
これほどの信頼をイエスに、また、神に寄せることの出来る人は幸いです。そういう人は、死を受容できる筈ですし、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と言われた主の御言葉の意味が分かる人であるに違いありません。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」これは16章24節にしるされている、イエスの告別説教の一節であります。主の名によって願うとはどう言う事でしょうか。自分が自分の願いを祈るのではなくて、自分の願いではあっても一旦はそれを主の御手に委ねる、信頼のなかで祈ると言うことではないでしょうか。ゲッセマネの園でイエスご自身がそのような姿勢で祈りを捧げておられます。「アパ父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
身内の不幸が、愛する者を失った悲しみが、癒される唯一の道は、ゲッセマネの園でイエスが表し下さった祈りにあると思います。不幸と思える出来事に苦しみながら、その苦い杯が取り除かれる事を祈りつつ、わたしたちも主に倣って御心に委ねる他ありません。そのイエスは身内の不幸を悲しむマルタに向かって、こう言われました。「(わたしは復活であり、命である。)わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」愛する者を失って悲嘆にくれる人々は、天の温みに与かる又とない機会を迎えます。不幸の彼方に神の姿を仰ぎ見る時が訪れるからであります。
グレゴリーバンドは明治学院のキャンパスから生まれた礼拝奉仕の団体です。その学院を創設した、へボン博士ご夫妻は1856年、ニューヨークの開業医でありながら3名のお子を次々に伝染病で亡くされました。悲嘆にくれる夫妻は神の御声を聞き、その御声に従って開国して程無い日本へ、最初の民間人として1859年、東神奈川に上陸致します。医療の手が行き届かない日本では、自分たちと同じように悲嘆にくれる家族がいるであろう事を、知らしめるために、神様は愛する子供をお召しになった。こうした人々を慰めるために、また、医者として癒しの勤めを果たすために宣教師として赴任したのであります。へボン婦人はヘボン塾に通う師弟をわが子の身代わりと思って、尽くされたと言うことです。また、東京女子大の設立委員長を勤めた東洋英和の宣教師イサペラ・ブラックモアは幼年期に両親を失い、伯母に育てられ、21歳でカナダメソジスト教会から派遣され、40年間勤めを果たした女性であります。東京女子大を生み出す今一人の女性はマリア・ツルー夫人であります。彼女は若くして未亡人となり、幼い娘を育て上げた後、宣教師として日本に赴任し、矢野楫子を見いだして女子学院を興した人物です。ブラックモアは在任中に4回も院長職に就きましたが、大きな功績は、下町に養護施設を造り、望みを起こす館、これを輿望館と名付けて育成したことであります。関東大震災で施設の殆どが壊滅的損害を受けた時に、彼女が語った言葉は「嵐のあとには虹が現れます。恵みの光を待ちましょう」と言って少しもひるむことはなかったと伝えられています。今日グレゴリーバンドの指揮を勤めておられる森 道興先生が、現在お勤めになっておられる日本聾話学校は、A.K.ライシャワー博士ご夫妻によって立てられた学校であります。ご夫妻には3人のお子さんがおられましたが、ハシカにかかって、子供が次々に発病し、上の男の子こ人は大過なく終わったのに、まだ幼なかった年下の女の子は高熱が困じて、聴力をうしないます。明治学院め宜教師を諦めてアメリカに引き上げる船の中で、ライシャワー夫人は神からの召命を受けたという事です。帰国して娘が受ける聾話教育を自分も受けて再び日本へ帰り、まだ開かれていない聾唖者のための教育施設を造る決意を、船の中で確かなものにしたのであります。
「望みなき時にも私たちが出来る事は何でしょうか。聖書が教える所によれば、それは神を信じる事であります。ヨハネ福音書も、ヨプ記も、そして、先程、交読した詩編116編の10節もそのように教えています。そして信じる事を最後の砦として、パウロもコリント後書4章で、詩編116編の10節を間接的に引用Lながら、こう述ペています。「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方にくれても、失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても、滅ぽされない。」10節「私は信じる。激しい苦しみに襲われている、と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思う時も。」だから、「私は信じ、そして語ったのだ。」
不幸と思える出来事のなかで、神と出会い、不幸な出来事を、神の業があらわれるご計画の一つとして受け止め直した人々が、闇の歴史を光りの国へと改める働きを始めている事の次第をいくつか列挙してみました。愛する人と別れる辛さや、不条理と思える不幸な事件は若い人達ほど多く、これからも何回か我が身に降りかかったり、身の回りで起こり得る事は残念ながら避けられない所であります。しかしその時こそ、あなたが心豊かな人となり、神と人に愛される、最も恵まれた働きに招かれていることが、聞き分けられるようになることを節に祈るためであります。イエスは言われた、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ラザロを死の床から引き出された主イエスキリストの父なる神様: 生きてはいても、本当には生きていないような私たちを、絶望の淵から贖い出し、御言葉を通して命の道を表して下さいましたことを、心より感謝いたします。それぞれが抱く弱さと、悩みをあなたの、ご栄光のために捧げ、御業のために用いて下さるように折ります。こうして、いまわの時でも、御名をたたえ、賛美の声を合わせながら、地上の歩みを主に倣って最後まで全う出来ますように、導いて下さい。主の御名によって祈ります。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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